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西東 三鬼

さいとう さんき西東 三鬼

  • 明治33~昭和37(1900~1962)
  • ジャンル: 俳人
  • 出身:岡山県

作品名

神戸・続神戸・俳愚伝

刊行年

1975

版元

出帆社

概要

第一話    奇妙なエジプト人の話

昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。街の背後の山へ吹き上げて来る海風は寒かったが、私は私自身の東京の歴史から解放されたことで、胸ふくらむ思いであった。その晩のうちに是非、手頃なアパートを探さねばならない。東京の経験では、バーに行けば必ずアパート住いの女がいる筈である。私は外套の襟を立てて、ゆっくり坂を下りて行った。その前を、どこの横町から出て来たのか、バーに働いていそうな女が寒そうに急いでいた。私は猟犬のように彼女を尾行した。彼女は果して三宮駅の近くのバーへはいったので、私もそのままバーへはいって行った。そして一時間の後には、アパートを兼ねたホテルを、その女から教わったのである。
それは奇妙なホテルであった。
神戸の中央、山から海へ一直線に下りるトーアロード(その頃の外国語排斥から東亜道路と呼ばれていた)の中途に、芝居の建物のように朱色に塗られたそのホテルがあった。
私はその後、空襲が始まるまで、そのホテルの長期滞在客であったが、同宿の人々も、根が生えたようにそのホテルに居据わっていた。彼、あるいは彼女等の国籍は、日本が十二人、白系ロシヤ女一人、トルコタタール夫婦一組、エジプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人であった。十二人の日本人の中、男は私の他に中年の病院長が一人で、あとの十人はバーのマダムか、そこに働いている女であった。彼女等は、停泊中の、ドイツの潜水艦や貨物船の乗組員が持ち込んで来る、缶詰や黒パンを食って生きていた。しかし、そのホテルに下宿している女連は、ホテルの自分の部屋に男を連れ込む事は絶対にしなかった。そういう事は「だらしがない」といわれ、仲間の軽蔑を買うからである。
その頃の私は商人であった。しかし、同宿の人達は、外人までが(ドイツの水兵達も)私を「センセイ」と呼んでいた。(何故、彼等がそういう言葉で私を呼ぶようになったかについては、この物語の第何話かで明らかになる。)
彼女達は「センセイ」の部屋へ、種々雑多な身辺の問題を持ち込んで来たし、県庁の外事課に睨まれている外人達は、戦時の微妙な身分上の問題を持ち込んで来た。
私の商売は軍需会社に雑貨を納入するのであったが、極端な物資の不足から、商売はひどく閑散で、私はいつも貧乏していた。私は一日の大半を、トーアロードに面した、二階の部屋の窓に頬杖をついて、通行人を眺めて暮すのであった。
その窓の下には、三日に一度位、不思議な狂人が現われた。見たところ長身の普通のルンペンだが、彼は気に入りの場所に来ると、寒風が吹きまくっている時でも、身の廻りの物を全部脱ぎ捨て、六尺褌一本の姿となって腕を組み、天を仰いで棒立ちとなり、左の踵を軸にして、そのままの位置で小刻みに身体を廻転し始める。生きた独楽のように、グルグルグルグルと彼は廻転する。天を仰いだ彼の眼と、窓から見下ろす私の眼が合うと、彼は「今日は」と挨拶した。
私は彼に、何故そのようにグルグル廻転するかと訊いてみた。「こうすると乱れた心が静まるのです」と彼の答は大変物静かであった。寒くはないかと訊くと「熱いからだを冷ますのです」という。つまり彼は、私達もそうしたい事を唯一人実行しているのであった。彼は時々「あんたもここへ下りて来てやってみませんか」と礼儀正しく勧誘してくれたが、私はあいかわらず、窓に頬杖をついたままであった。
彼が二十分位も回転運動を試みて、静かに襤褸をまとって立ち去った後は、ヨハネの去った荒野の趣であった。それから二年後には、彼の気に入りの場所に、天から無数の火の玉が降り、数万の市民が裸にされて、キリキリ舞をしたのである。
下宿人のエジプト人マジット・エルバ氏は私の親友となった。彼は当時日本に在留する唯二人のエジプト人の一人であった。いわゆる敵性国人であったが、引き揚げなかった他の英米仏人達と同様に、旅行は許されなかったが、神戸市内では一応自由であった。彼はこの奇妙なホテルでの、最も奇妙な人物であった。商売は肉屋で、山の手の通りに清潔な店を持っていたが、もう商品はカラッポであった。彼はその店に独り住む事を好まず、わざわざホテルに滞在していた。年は幾つなのか、さっぱり見当がつかないが、多分四十歳そこそこであったろう。小麦色の彫りの深い顔には、いつも髪の剃り跡が青々としていた。恐ろしく胸の厚い男で、まるで桶の胴のようであった。こういう放浪者に似ず、英語も日本語も下手糞であった。日本滞留十年で、ヨーロッパ、アメリカ、南米と流浪の末、日本神戸に根の生えたエジプト種の強い蘆である。私は青春時代を、赤道直下の英領植民地で暮したので、彼のコスモポリタン気質はよく判った。彼のお国自慢は、名前のエルバに由来し、彼の説に従えば、彼は正しくナポレオンの追放された島の出生だというのである。彼は何度もこの話をしたが、その時の彼はナポレオンの落胤のような顔をした。


『神戸・続神戸・俳愚伝』(講談社文芸文庫) 9?12P



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第二話   三人の娘さん達

神戸という街は、戦争中、流言のルツボであった。つまり、スパイの巣であった。県庁の外事課は、そのためやっきになっていたが、いわゆる敵性国、盟邦の、両方の人間が、日本の敗色濃い情報を流す。いくら官設ラジオが勝った勝ったと放送しても、ドイツやイタリーの軍艦や潜水艦が、外海に出航する路を完全に封じられていることは、水兵達が、いつまでも神戸にノソノソしている事実からみて、神戸の市民は皆知っていた。
そして、驚くべきことに流言、デマとして耳に入った情報が、大抵は真実であることが、次々にわかり、しかも、デマと思った情報の方が、控え目であった。
現に、私の親戚の、精神病院を経営していた医者は、米と砂糖を貰いに行く私に、声もひそめず、紀淡海峡には、アメリカの潜水艦が、一昼夜交替で見張っていることを告げた。昭和十九年のことである。そして、それは事実であることを、ドイツ潜水艦の士官からも聞いた。
私はすでに底をついた物資を、探し出して会社に納入するため、東京と神戸とを往復していた。超満員のデッキのステップに、数時間ぶらさがったこともある。

昭和十九年の夏のある日、和田辺水楼(前篇第八話に登場の「京大俳句」会員)が、山本通の私の家へ、綺麗な娘さんを連れて来て、私に預かってくれという。事情を聞くと、姫路駅の助役の娘だが、徴用免れのために、大阪鉄道局に勤めている。毎日、殺人列車で大阪まで通勤は大変だから、君の家は、ガンガラガンと空室だらけだし、丁度よろしい。預かって、ついでに大切にしてくれ――という。
高峰秀子によく似た娘さんが、荒涼としたわが家の家族になることに、私は勿論異存はないが、同棲者の波子は、神戸で私と邂逅するまでは、横浜から引きつづいて娼婦だったから、他のあらゆる女性に対しては、一様に反感を持っている。とても承諾はすまい、と思っていたら、キヨ子という、その娘さんは、大変頭がスマートで辺水楼と私の対談の間に、わけなく波子の好感を獲得してしまった。
キヨ子が寄宿するまでの、波子と私の生活は、索漠たるものであった。私には何の目的もなく、波子には、扶養せねばならぬ母と弟が、横浜にいた。少女時代から、働いて金を得た経験のある波子には、私との、神戸の生活の意味が、のみ込めなかった。「情にひかされないように」というのが、彼女の毎日の、ひそかなお題目であった。そのお題目の効果が、日ごとに薄れてゆくのを、彼女はいまいましがり、相手の私を憎んだ。
長い長い、暗い暗い夜であった。
キヨ子は、そういう生活を一変させた。化物屋敷のような洋館に陰性の波子と、陽性のキヨ子が、新しいバランスと諧調を示した。波子は、もしかすると、私と美貌のキヨ子とが、結びつくことによって、自分の脱出の機会を作ろうと考えたのかも知れない。
しかし、例え波子が望んだとしても、そういう事は起り得ない。キヨ子には許婚の青年がいたのだ。
神戸高商からの志願学徒兵。霞ケ浦、刈谷と航空隊を経て、少尉になっていた。
キヨ子は明るい性格で、派手好みの、一見フラッパアのようでいて、この少尉に対する愛情の深さは、一通りではなかった。
すでに特攻隊が設けられていたから、文字通り、明日をも知れぬ命であった。許婚の二人が、遠く離れていてたえまなく燃え上っていたのは、当然といえよう。
キヨ子は、毎土曜日毎に、航空少尉の任地へ、霞ケ浦、刈谷、鹿屋と歴訪した。茨城県、愛知県、鹿児島県への、娘一人の旅であった。旅先での若い二人が、どのような休日を過したかはわからないが、神戸に帰り着いたキヨ子は、苛烈な列車の旅疲れもあって、いつもゲッソリ痩せていた。
そういうキヨ子を、身心ともに浮草のような波子が、優しくいたわった。あらゆる情熱を失った波子には、キヨ子の一途な恋愛が、ただただ羨しく、貴重に思えたのであろう。
九州鹿屋で中尉に昇進した青年は、沖縄へ出動したまま、遂に帰らなかった。
中尉の両親、兄妹は、神戸に住んでいたので、キヨ子は、公報が発表されてから、毎日のように、その家を訪れた。万一、無人島にでも漂着してはいないか、そういう夢をよくみると、私に話した。表情は微笑しながら、眼からポロポロ涙の粒が落ちた。
(後略)

『神戸・続神戸・俳愚伝』(講談社文芸文庫)114?117P

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