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大岡 昇平

おおおか しょうへい大岡 昇平

  • 明治42~昭和63(1909~1988)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:東京

作品名

わが復員

概要

(前略)
須磨舞子の青松白砂は源氏の昔と変らぬ風光明媚で我々の眼をうっとりとさせたが、鷹取から焼跡が始って来た。一望赭い土と鉄と化した原に、墓石ばかり白い。昭和初年に竣工した鷹取から灘に到る高架は、鉄道省御自慢の工事であるが、十三年の水害にはこれが泥水を堰いて家々を溺れさせ、今は車窓に焼跡の展望景を与えて、旅客の心を傷ましめる。

わが復員者達は初めて焼跡というものがわかったのである。さすがにはっと息を呑んだ顔付で、黙って忙しく左右の窓外を見続ける。
私はすがりつくように山際を眼で調べた。火がどの程度まで山を上り得るかが問題である。鷹取山の麓は残っていた。平野の奥に掃き寄せられたように甍がかたまり、山膚の白と焼跡の赫の間に挟まって、一段と黒く汚く見える。山手も大丈夫だ。
汽車が遂に三宮駅に着いた時、私は自分の家が必ず残っているという殆んど確信に達した。
俘虜の仲間ともこれでお別れだ。もう一生会うこともあるまい。
「さよなら」「御苦労さん」を交わし、手を振って、元気にホームに降り立った。窓々の友人に呼び掛けながら行く。一人は、
「大岡、大岡」と忙しく呼んで、「家が焼けたって、あんまり気を落すなよ。何処でも行くとこあるからな」と真剣に慰めてくれる。
「はは、大丈夫さ、俺のとこは山の方だ。これまで悪運が続いたんだから、ついでに家だって残ってるさ。さよなら」
省線の駅から新京阪の駅へ渡る間には、露店が並び、蜜柑、大福、煙草を売っている。みんな法外に高いが、比島のインフレとは比べものにならない。前大戦後のドイツとロシヤの状態の噂話から類推していた私にとって、すべて意外に品物が沢山ある。
「へっ、何でもあるじゃねえか。何でえ、じゃ金さえ取って来ればいいってことか。よおし、稼いで見せるぞ。要するに稼げばいいんでしょう。稼げば」と私は殆んど声に出して考えた。かねて収容所で私が計算したところによると、帰還後私が養わなければならぬ親類縁者は十二人いるのである。
無論何をして稼ぐか復員者にあてなどあるはずがないが、いずれ月給で間に合わないとすれば、闇屋でも何でもやるつもりである。前線で生命を守るために、どんなことでもやって来た体だ。
新京阪の駅は、階段の下、ホームの隅、線路上にも、いたるところ糞がしてあった。見下す駅前には闇市場が立って、バラックの間に様々の物品が雑然と並び、何をしているのかわからないあんちゃんが汚いなりをしてうろうろしている。比島の市場と正確に同じ風景だ。やれやれ、敗ければどこでも同じことか。
電車は西灘に近づき、わが家のあたりのブロックがたしかに残っているのが見えた。町内会長の鈴木さんの庭木も、家の周囲の高級借家の赤屋根も見える。
高架の西灘駅は焼けたと見え、少し先で線路が地面に下りたところに仮の駅があった。附近はやはり闇市である。
「稼げばいいんでしょう。稼げば」と私は依然として何も買わずに呟き続けた。
上りは五、六丁ある。上るにつれて焼け残りの家が殖えて来たが、遠くからは一帯に残っているように見えても、近づくと歯の抜けたようにぽこぽこ焼けた家が混っているのがわかる。庭木だけあっても家のない邸もある。道傍のポストが倒れたままだ。いたるところやはり焼跡の狼藉である。
家に近く、電車からは無事に見えた洋館の高級借家も、博多のビルと同じく残っているのは外部だけで、中は、黒々と焼け抜けていた。油断は出来ない。最後に家の見える曲り角で、私は殆んど「一二」と号令をかけるようにして、わが家のかたへ眼を向けた。
家は残っていた。三方が焼けた中に、島のように黒い甍が残っている。ざまあ見やがれ。私の足は速くなった。
見馴れた軒と窓が見える。玄関へ導く階段の手摺も、もとのままだ。洗濯物が干してある。妻は生きている。しかし待てよ。あの干物は少し変だぞ。どうもうちでは見掛けなかったものだが。留守宅の経済では新しい繊維製品を買えるはずはないのだが。
表札が違っていた。「吉田」。なんだ、これは大家の苗字だ。出て来た婆さんは耳が遠かった。どうやら大家の親類に当るらしいが、以前の店子としての一応の挨拶にも答えがどうもぴんと来ない。妻の行く先は田舎とだけしか知らない。
町内会長の鈴木さんの家へ行くことにした。幸い奥さんがいて、
「よくお帰りになりました」と縁側に招じてくれた。
帳簿には、「明石郡大久保町中ノ番菊谷百太郎方」とある。やはりさっき汽車で通った大久保の親類へ疎開していたのである。前線で受取った手紙には「女子供ばかりで疎開をすすめられてますが、あなたと永年暮した家が去り難く云々」とあったが、空襲が激しくなってはいたたまれなかったのであろう。
「ほんとによくお子さんをお育てになりましたよ」
と奥さんは芋の切り干しの焼いたのを薦めながらいった。妻は人形と遊ぶように、子供に着物を着せたり脱がせたりするのが好きなだけなのであるが、留守中の女房をほめられるのは悪い気持ではない。
Cレーションを一組お礼がわりにおいて辞した。五時に近かった。大久保へ帰れば夜になるであろうが、とにかくこれで妻も子も無事であることは確実になった。あとは二時間という時間があるだけだ。
(後略)

『大岡昇平全集 3』筑摩書房 317?319P

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