常設展示

兵庫ゆかりの文学

  1. TOP
  2. 常設展示
  3. 兵庫ゆかりの作家
  4. 兵庫ゆかりの文学
  5. 不思議な関わり

三枝 和子

さえぐさ かずこ三枝 和子

  • 昭和4~平成15(1929~2003)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸市

作品名

不思議な関わり

概要

岩野泡鳴の名を、最初に強く印象づけられたのは十八歳くらいのときであったか。私は旧制兵庫師範学校文科二年生だった。戦後、学校制度の移行期だったが、多分神戸大学教育学部の前身ということになろうか、その一年生に当ると思う。
正月休み、担任の国文の先生に年賀状を書いた。この先生は文理大系の多い師範学校の先生のなかでは異色の存在だった。東大の国文出身で武者小路実篤と親交があった。作文の時間にどうしても、いわゆる「作文」が書けなくて小説を書いて提出した私を大変可愛いがってくれた。年賀状に、冬休みは芥川龍之介を耽読していますと書いたら返事が来た。「龍之介も龍之介だが、岩野泡鳴など読むことをすすめます」。
――岩野泡鳴?
名前を知らなかったわけではないが、意表を衝かれて戸惑った。岩野泡鳴は私の読書経験からすれば文学全集の波のなかに沈んでいる。女学校四年生の秋、私は学徒動員の明石の航空機工場から三週間の休暇をとって神戸の県立病院に入院している弟の付添をした。人手が無いときだったが時折空襲もあるので子供の入院には付添が必要だった。しかし付添といっても看病をするわけではなく、暇はたっぷりあった。私は病院の向かいの貸本屋から「円本」の日本文学全集を借り出して第一巻から読破する計画を立てた。そのなかに岩野泡鳴があって読んでいるはずだが、明瞭に覚えていなかった。少女の感覚では、何だかヘンなひと、という記憶しかなかった。どちらかというと好きでなかった。だから先生の葉書にすくなからぬショックを受けた。しかし、この学生は将来小説を書く道に進みそうだという予感があって、龍之介ではなく泡鳴をすすめたとあれば、先生の炯眼には恐るべきものがある。私の小説が悪評にさらされるときには例外なく、知的操作が目立つ、との評言があるからである。
ただ馴染めないものにはやはりついて行けなくて、先生の忠告にもかかわらず、岩野泡鳴はちょっと覗いただけで再び素通りした。
二十年後、泡鳴文学に接する機会がもう一度訪れた。私は明石にある兵庫県立中央図書館の諮問委員になっていた。大学の先生とか経済界の人とか私のような作家とかが年二回集って、図書館側の人たちに外部からの意見を述べる会を持つのである。
この会の雑談の席で岩野泡鳴の話が出た。郷土の作家として「岩野泡鳴記念館」のようなものを建設する可能性はないだろうか云々。
――郷土の作家?
私は吃驚仰天である。泡鳴が兵庫県淡路の産であることを初めて知る始末。へええ、郷土の作家なのだ。明石からは海を隔ててはいるが指呼の間だ。しかしその委員会は三年ほどで止めてしまったので、「岩野泡鳴記念館」なるものの建設案が、その後どうなったか知る由もない。
三度目……。私は別に三題ばなしを書くつもりではなかったのだが、自然にそうなってしまった三度目の泡鳴との関わりは、未収録評論「ホメーロス」のゲラをこの全集の編集委員の一人である大久保典夫氏に見せてもらったときである。
――岩野泡鳴と古代ギリシア。
これこそ私にとっては意外中の意外であった。しかしよく考えてみると、明治の末年から大正にかけて、日本では一時期、古代ギリシアが注目された気配がある。気配がある、などと感覚的な表現しかできないのだが、幼いとき、母の本棚に例の「希臘」という難しい文字の本が何冊かあったように記憶している。子供用の「プルターク英雄伝」や「ギリシア神話」も読まされた。母は小学校の先生をしていたし、生きて居れば今年は九十歳である。計算すれば泡鳴より三十歳くらい年下であるから、泡鳴たちのこしらえた風潮に若い頃かぶれていたとも思える。
もっとも泡鳴の「古代ギリシア」は英訳によるものと思われる。当時ヨーロッパでは一八七一年にシュリーマンがトロイアの丘を発掘、続いて一八七六年ミュケーナイを発掘、ホメーロスの世界が単なる夢物語でないことが証明され、俄かにルネッサンスとはまた別の「古代ギリシア・ブーム」が捲き起っていた。泡鳴はおそらく、この風潮に敏感だったのだろう。ここには明治の開国精神が躍起となって輸入していた「近代」とは別質の思考があり、この別質の思考に泡鳴がいたく心を動かされていたらしいことが私には興味深い。

大久保氏に見せてもらった「ホメーロス」のなかにこんな文章があった。
「……アリストテレース曰く、活きたる言葉を発見したる詩人は、渠(ホメーロスのこと―筆者注)のみなり、そのうちには、如何なる好作者のよりも大胆なる修飾と隠喩とありと。これ、また一方の証明なり。されど渠はこの特色を過大にして形式に流るゝが如きことなく、シエキスピアと同じく、自己を没却してうちにその情熱を呈するなり」
単にホメーロスのみならず、古代ギリシアの文学全体を貫く特質が言い当てられている個所である。当時、古代ギリシアに関する文献がそんなに多くあったとは思えない。泡鳴の直観力の鋭さの証明でもあろうか。
ただ「自己を没却して」という捉えかたには、訂正を加えなければならないだろう。ホメーロスの時代にあっては、まだ「自己」という発想は無かったのである。ホメーロスとほぼ同時代と目されている詩人にヘシオドスという人がいるが、この人の『神統記』は「ヘリコン山の詩歌女神たちの賛歌から歌いはじめよう」と歌い出される。「彼女たちなのだ(このわたし)ヘシオドス/以前聖=ヘリコン山の麓で 羊らの世話をしていた このわた/しに 麗わしい歌を教えたもうたのは」というわけである。
つまりホメーロスやヘシオドスの時代にあっては詩歌はすべてムーサと呼ばれる女神の導きによって生まれると考えられていた。ムーサ、複数はムーサイで、この詩歌女神は必ず複数で現われる。三人とか七人とか、それぞれの土地によって伝承が異るがヘシオドスは九人としている。したがって詩人たちは先ず詩歌女神たちを讃えてから歌いはじめる。「自己を没却して」というのでなく、自己という発想がまだ無かった、と私が述べたのはこの点である。ヘシオドスの生存年代は、おおよそBC七五〇?六八〇年と推察され、ホメーロスの方はほぼ同時代か、それより少し前とされている。もっともホメーロスの『イーリアス』にしろ『オデュッセイア』にしろ、一人の人間の作ではないとか、ホメーロスがそのまとめ役だったとか、さまざまな説があって、したがってホメーロスの生存年はいまひとつはっきりしないのだが、BC八世紀の人だったことには間違いない。
古代ギリシアではこうした詩人たちが出現したあと、ほぼ二百年後にアイスキュロス、続いてソポクレスなどの劇詩人が生まれるのであるが、ここでもまだ詩人たちの「自己」はそれほど明確ではない。「汝自身を知れ」で有名なソクラテスはホメーロスより三百年以上も後世の人間なのである。
しかし、ひるがえって欧米の文化が怒濤のごとく押し寄せた私たちの国の明治を考えるとき、何よりも自我の確立が叫ばれていたことは想像に難くない。また古代ギリシアにしても西欧直輸入であればあるほど、中世の反として人間性優位として捉えられていたにちがいない。そのなかにあって、ホメーロスの詩的言語の本質に迫り、その没我性の意義を指摘した泡鳴は卓見と言う他ない。
私は今頃になって、昔の恩師の「龍之介も龍之介だが、岩野泡鳴など読むことをすすめます」という言葉を、自分の創作上の忠告として受けとめているのである。

『岩野泡鳴全集 第十三巻 月報』臨川書店1?3P

三枝 和子の紹介ページに戻る

ページの先頭へ