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井伏 鱒二

いぶせ ますじ井伏 鱒二

  • 明治31~平成5(1898~1993)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:広島県福山市

作品名

七つの街道

概要

ささやま街道

二日路を一日に打たせて…

丹波路の旅といふのを縮小して、大体のところ篠山街道を一と巡りする旅にした。それも、初めのうちはどんなところに興味を置くか予定してゐなかつたが、ふと思ひついて、その昔、一ノ谷へ駈けつけた源九郎義経の足どりの跡を巡る旅にした。同行者は文春別冊編輯部の印南君と写真部の原田君である。
古い軍記軍談に、京を出発した義経は「二日路を一日に打たせて」丹波路を急行軍し一ノ谷に迫つたと云つてゐる。無論、そのとき義経は篠山街道を行つたのだが、かつて私は「二日路を一日に打たせて」といふ意味は、急行軍する形容だらうと小説のなかに書いたことがある。それに対して、未知の或る人から、それは形容ではなくて実際に二日路を一日に馳せたことだと反駁の投書が来た。これが今だに私の記憶にある。ついては今度、丹波へ出かけるので、地元の人に判断を願つてみたいと考へついた。
地図を見ると、丹波の国には幾つもの盆地がある。盆地から盆地へ越えるには、高い峠を越えなくてはいけないので、いかに奥州産の名馬に乗つた義経の一隊とて、京から篠山の先の小野原まで一日で行軍できるものではないと思つてゐた。(これは現地に行つて、私の間違ひだとわかつたが)こんな片々たる疑問を、せつかく丹波路を行く旅の主題にするのは変質のやうにも思はれた。それで私は同行の印南君に、冗談ごとにしてかう云つた。

「篠山街道について言へば、この道は、大急ぎで通るのが故実に従ふことになるやうだ。源義経も篠山街道を大急ぎで通つた。足利尊氏も、西国へ落ちるとき大急ぎで通つた。明智光秀も、本能寺を襲撃するときには、老ノ坂を大急ぎで越えた筈だ。僕等も今度は丹波路を大急ぎで旅行するのだから、篠山街道を行くことにしよう。」
木に竹をついだやうなことを云つた。それでも印南君は大体のところこの案に賛成して、東京を発つ前に篠山町の文化顕彰会に連絡し、尚ほ園部町の吉田さんといふ歴史の先生にも連絡してくれた。
篠山街道といふのは、京都から老ノ坂、亀岡、福住を経て、篠山に至る往還である。園部町はこの街道から可成り反れたところにあるが、印南君は篠山への直行を避けて園部に寄ることを主張した。文献によると義経は、京から一ノ谷に向つて進撃するに先だつて股肱の臣に命じ、園部の手前、八木の辺の衆徒を語らつて配下に入れさせたさうである。それで私も園部に寄る案に賛成し、京都から先づ園部に直行してその町の三亀といふ宿屋に着いた。
この町は、江戸初期に低地を埋めて(川筋を変へて)つくつた町だから、今でも井戸を少し深く掘りさげると、朽ちた木が横になってゐるのにぶつかることがあるさうだ。
宿屋の庭の石灯籠に、青苔が厚く盛りあがつてゐるのが見事であつた。
「でつかい苔だ、まるで京都の東山のやうな恰好だ。」
と私が驚くと、この町は霧が深いから幾らでも苔が生えると女中が云つた。何といふ名前の苔かと訊ねると、そんなことはわからないと云つた。スギ苔にも似てゐるしビロウド苔にも似てゐる苔である。
私は宿屋の裏門から川に出て釣をしてみたが、まるで手応へがなかつたので、釣具屋に寄つて新しい餌を仕入れた。
「この町の名物には、どんなものがありますか。」
釣具屋の主人に訊ねると、ここには名物なんていふものはないと答へ、見物するほどのところも何一つないと云つた。
宿に帰ると印南君に促され、吉田さんといふ歴史の先生を訪ねて城址に案内してもらつた。園部城址である。この城は、元和五年に但馬の出石から移封された小出吉親といふ殿様の構築で、総廓の廻り二十一町余であつたといふ。ここの城下町の規模に比較して城廓が広大にすぎるやうに思はれるが、いま残つてゐる城の建物は、現在の城下町に対して、ちやうど似合ひのやうな感じである。わづかに城門が一つと、隅櫓が一つと、塀の一部が、一箇所にまとまつて残つてゐる。ほかには濠の一部が残つてゐる。しかし中世的な城門と櫓だから、よく昔の戦争を取扱ふ映画の背景に使はれるさうだ。
(後略)

『井伏鱒二全集第19巻』筑摩書房 5?7P

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