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兵庫ゆかりの文学

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井伏 鱒二

いぶせ ますじ井伏 鱒二

  • 明治31~平成5(1898~1993)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:広島県福山市

作品名

さざなみ軍記

刊行年

1938

版元

河出書房

概要

(前略)
正月二十九日(寿永三年)
けふ夜明け前に、私たちは先鋒隊として須磨浦に着岸した。かねて見覚えのある鉄拐の峯には、ところどころに雪が消え残つてゐた。まだ私たち一門が福原に都住まひをしてゐた当時、私はこの峯を霊峯として崇めるやうに父から教訓されてゐた。或るとき鶴がこの峯の中腹に舞ひおりるのを見たことがある。
私たち一門の福原の屋敷跡は、全くの廃墟と化してゐた。崩れ落ちた瓦と礎石が跡をとどめてゐるだけである。萱の御所、岡の御所、二階の桟敷殿の焼跡はすでに麦畑に開墾されてゐた。浜の御所の焼跡には、掛け小屋づくりの貧弱な民家が建つてゐた。
私は配下の兵船十艘を船筏に組ませ、士卒を福原の民家に分宿させた。私は泉寺の覚丹の提言により、部下の掠奪を禁じ女色を堅くいましめた。泉寺の覚丹は僧形に身をやつして世情の偵察に出た。
覚丹は日が暮れてから帰つて来た。その報告によると、すでに帝都では改元の儀が行はれ、元暦と改められたといふことである。そして去る二十一日にはこれまで帝都を横行してゐた木曾の軍勢が、鎌倉の軍勢の一と打ちによって脆くも滅亡したさうである。覚丹はその合戦の有様を、旅の向かひ礫から詳しくきいて来たといふ。鎌倉の軍勢は六千騎、これが二隊にわかれて帝都に押し寄せた。一隊は蒲の冠者を大将軍として瀬多に押し寄ぜ、一隊は源九郎を大将軍として宇治に押し寄せた。木曾の軍勢は二千余騎であつた。これも二隊にわかれて宇治と勢多を守つたが、先づ宇治が破れ東国勢に河を渡された。源九郎の軍は直ちに数隊にわかれ攻め寄せて来た。木曾は敗戦と見て院の御所に馳せ参じ、法皇を奉じて臨幸を強請したてまつらうとした。このときすでに東軍は、木幡、七条、伏見に攻め寄せてゐた。木曾は止むを得ず臨幸の願ひを断念し、院中を駆け出で宇治の残兵三百余騎をもつて六条河原に東軍を邀へた。しかし散々に打ち破られ、勢多の一隊と合流するため粟田口から長坂を越え、近江に落ちた。東軍は洛中に乱入した。源九郎は時を移さず御所の門前に駆けつけて門外にあつて馬上から声高らかに奏聞した。勅状により頼朝の使者として舎弟義経、宇治路を破つて参上つかまつつたる趣を奏聞したのである。法皇には御感あらせられ中門の外の御車宿の前に下馬伺候する源九郎を御覧あそばされた。このとぎ源九郎に従ふ面々は、畠山の次郎、渋谷の小太郎、佐々木の四郎、梶原の源太といふ五名の荒武者であつた。法皇にはこの東国武士の生国氏名年齢を御下問あつて、彼等の面だましひといひ骨柄といひまことに頼もしく見ゆると仰せられた。
また一方、勢多の渡しを守つてゐた木曾の兼平の軍勢は、蒲の冠者の率ゐる東軍に田上の貢御瀬を渡された。兼平の兵は五百余騎である。多勢に無勢、散々に打ち破られて大津に退く途中、粟津の原で敗残の義仲に行きあつた。義仲の兵はわづか七八騎に打ちなされてゐた。このとき時刻は入相ひ近くであつた。兼平は伏せてゐた旗を高くたてた。すると森のかげや堤のかげから、討ち洩らされた木曾の残兵が馳せ集まつて、その勢四百余騎になつた。義仲は北陸道に逃がれて行くつもりかもしれなかつたが、すでに蒲の冠者の大軍に取り囲まれてゐた。木曾の軍はきびしく攻めたてられ、四百騎は三百騎となり、二百騎となり、百騎となり二十騎となり、漸く駆け破つたときには主従二騎となつてゐた。その一騎は兼平であった。兼平の箙には矢が七八本ほど残つてゐた。義仲はおそらく自害して果てようと思つたのだらう。兼平が防ぎ矢を射てゐる間に粟津の松原の方に逃げだした。兼平は矢を射つくして、鐙踏張り突つ立ちあがり、寄せ来る大軍に向つて大音声をあげた。

「いかに東国の人びと、承はれ。これは信濃の国の住人、木曾の兼遠の一子である。国を出てよりこのかた十幾度の合戦に、まだ一度も不覚をとつたことのない木曾殿の御乳人子、今井の四郎兼平といふものである。この名前は汝等の大将軍鎌倉殿も御存じである。汝等この兼平を討ちとって、鎌倉殿より勧賞を承はれ。」
しかし丁度そのとき義仲は馬から降りようとして、兼平の方を振りむいた。義仲のその内かぶとに一本の矢が突きたつた。可成りの傷手であったらう。義仲はかぶとの真向を鞍の前輪に押しあてて、うつ伏した。
そこを、駆け寄って来た東軍の郎党の手で討ちとられた。兼平は馬にまたがつたまま腹をかき切つた。そして太刀のきつさきを口にふくみ、馬からまつさかさまに落ちた。太刀は兼平の項に貫ぬいてゐた。この日の義仲の装束は、赤地の錦の直垂に唐綾をどしの鎧を著て、鍬形うつた五枚かぶとに黄金づくりの太刀をはいてゐた。馬は木曾の鬼芦毛といふ逞しい馬であつた。
木曾や兼平のこの最後は、最早や洛中洛外に知れわたつてゐるにちがひない。泉寺の覚丹よりすこしおくれて偵察に行って来た宮地小太郎も、覚丹と大同小異の報告をもたらした。
今宵、深更に及んで後続の大人数が上陸した。主上の叡船も警固の船も着岸した。しかるに主上におかせられては、万一の敵の夜襲にそなへて御上陸あそばされない。和田の浜辺に叡船を近づけさせられ、海上にあってそこを御遷幸の御陣所とあそばされてみる。衛士は渚におりて篝火の手筈をととのへてゐるが、敵の目を忍ぶため火はかかげない。私の宿所ではいま宮地小太郎が焚火をたいてゐる。その焚火の明るみで、今宵もまた私はこの日記をしたためてみる。泉寺の覚丹は焚火に背を向けて眠つてゐる。
(後略)

『井伏鱒二全集 第二巻』筑摩書房 74?76P

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