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兵庫ゆかりの文学

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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

昨日と明日の間

概要

(前略)
彩田萄子は神戸へ向かう自動車の中で、四村乙彦と並んで坐りながら、やたらに腹立たしくなっていた。
阪神国道を、自動車は全速力で疾走している。ヘッドライトの眼玉が次々に前方に現われ、そしてそれらは、またたく間に大きくなり、萄子の乗っている自動車と擦れ違っては、背後へすっ飛んで行く。
大阪と神戸を繋ぐこの街道だけが、ひとり、この深夜、活動している感じである。
萄子は、夫の周平にも腹を立てていたし、女中のはるにも腹を立てていた。
自分が閉め出しを食った事情は容易に想像できる。――九時頃、周平は帰宅する。今朝出がけに宴会があると言っていたので、彼は赤い顔で帰宅したに違いない。他の人の場合、宴会というものは、もっと遅くなるものだと思うのだが、周平は、いつもきっかり九時に帰宅する。酒も嫌いだが、飲んだり食べたりしていることが、妙に無駄使いをしている気がして我慢ができなくなるらしい。睡気が彼を襲っている。酒を飲むと周平は睡たいだけだ。萄子が音楽会から帰って来ていないので、彼ははるに床を敷かせて寝てしまう。はるの方は自分の部屋で仮睡したに違いない。そして途中で眼を覚まし、もう萄子は帰宅したものと思って、あわてて戸締りして今度は本格的に寝てしまう。
萄子は、大きいいびきをかいて一人で眠っている周平の寝姿を眼に浮かべると、腹も立ったが、又、幾分せいせいする気持もあった。妻が外泊しようとして、いま神戸へ向かっていることも知らないで、いい気なものだと思う。
「ホテルあるでしょうか?」
萄子は四村に言った。
「大丈夫です。どこかにありますよ」
四村は顔を前に向けたままで言った。彼は自動車に乗ってから無口になっている。
神戸へ行ってホテルを探す筈だった。
三宮駅の近くで自動車を停めると、四村は一人で車を降りた。電話を借りるために、表戸を閉めかけている洋品店へ入って行く彼の背後姿を、萄子は自動車の中から眺めていた。

五分程経っても四村は戻って来なかった。余り手間を取るので、萄子もまた自動車から降りた。
四村は店先で、硝子の陳列ケースに身をもたせ、電話のダイヤルを廻している。
彼は萄子の方は見なかったが、彼女が来たことは判ったらしく、
「驚きましたな。どこにも部屋がないんです」
と言った。
それからなお三つ程旅館を呼び出して、断わられると、
「どうです、得体の知れぬところへ泊るより、僕の家に来ませんか。離れと言っても、二階もあります」
四村は言った。萄子が返事をしないでいると、
「そうなさい」
と、彼は重ねて言った。
「御迷惑ではありません?」
その時、萄子の心は決まった。四村乙彦家へ泊ろうと思った。
二人はまた自動車に乗った。車が走り出すと、少し経ってから、
「芦屋で、知り合いのお家というのを起して、そこへ泊るべきだったかな」
と、四村は言った。先刻芦屋で、まだ自動車に乗らない前に、知り合いの家があるからそこへ泊ってもいいと、萄子が言ったことがあったので、四村はそれを思い出したものらしかった。
「だって、家を閉め出されたなんて言って、行けないじゃあありませんか」
「僕の方は、一向さしつかえないんです。ただ貴女に――」
「私に不可ませんの?」
「僕のところへ泊ったことが判ったら――」
「そりゃあ、判るでしょう。判ったって、一向さしつかえありませんわ。実際に、家にはいれないんですもの」
萄子は言った。しかし、萄子もまた、四村の家へ泊るということに決して不安がないわけではなかった。あとで、厄介なことが起りかねないと思う。
しかし、厄介なことが起るなら、起ってもいいではないか。
女というものは、どんな善人でも、一生に何度か悪魔になる瞬間があるそうだが、自分はいまその瞬間にいるのかも知れない。何事も起らないより、何事かが起った方がいい。ひどく退屈で平穏だった自分の明け暮れに、いま波乱を起すために、何事かがやって来つつあるようだ。
四村乙彦の家を訪ねるのは初めてである。前に何度も、訪ねる決心をしながら、ついに一
度も実現したことはなかった。その度に、その考えを押し潰して来たのだ。
それが、この夜更けに泊りに行く仕儀になったのは、皮肉だった。
自動車は、灯の数が目立って少なくなっている山手の急坂を上って行く。警笛が、夜更けの住宅街の静寂を引き裂いている。
かなり上り詰めた所の、大きい邸宅の前で、自動車は停まった。
(後略)

『井上靖全集 第九巻』新潮社 329?330P

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