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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

あした来る人

概要



大阪駅で特急つばめから吐き出された曾根二郎は、それから十五分後に、鞄一つ持った姿で、阪神電車の乗り場に姿を現わした。
大阪駅から阪神電車の乗り場までは眼と鼻の先の距離であるが、その間に十五分の時間を要したのは、いささか不思議としなければならないが、一番それを不思議に感じているのは、当の曾根二郎自身であった。いつも知らないところを訪ねて行く時はこうである。まともにすうっと行き着けたためしはなかった。いまの場合もそうだった。駅の改札口を出たところで、
「あそこです、あの建物です」
と学生に阪神ビルを教えられ、その通り歩き出したのであるが、地下道をくぐったら、どういうものか変なところへ出てしまい、もう一度地下道へはいったら、こんどは阪急電車の乗り場に持って行かれてしまったのである。こうした小さい物事の判断にかけては、幼い時から全く劣等生の才能しか持っていなかった。
香櫨園までの切符を買った。
阪神電車の香櫨園で降りると、酒場で電話をかけた時、八千代から言われたように、海の方へ向って歩いて行った。そして海へ突き当る少し手前で、いい加減見当をつけて、右手の低地へ降りて行った。そして最初の家で、梶大助の家をたずねた。
「梶さんの家ですか」
若い会社員の細君らしい女は言った。
「はあ」
「お向いです」
見ると、向いの家は、さして大きい構えではないが、半洋風の造りで、石塀のまわったなんとなく金のかかっている感じの家である。
曾根は、あまり簡単に、梶家へたどりついたことがふしぎであった。どうせ三十分や四十分は、家探しにかかるのを覚悟していたが、すうっと梶家の門前へ出てしまったことは、奇妙であった。こんなことは今までにないことであった。
門は閉まっていた。曾根は門にベルがついているのを発見すると、そのボタンを押した。暫くすると、女中が現われた。
「僕は曾根という者ですが、梶さんはいらっしゃいますか」
そう言うと、
「はあ、どういう御用件でしょうか」
女中は聞いた。すぐには入れてもらえそうもなかった。曾根は名刺を出して、「これを見せていただけば判ると思います」
それから、
「東京の大貫さんの奥さんが来ていらっしゃるなら、大貫さんの奥さんに見せていただいても判ります」
と言った。女中はいったん去って行ったが、間もなく戻って来た。
「どうぞ」
「梶さんお忙しいでしょうな」
そんなことを言いながら、曾根はくぐり戸をくぐった。
「はあ。ただ今お風呂をたいていらっしゃいます」
女中は答えた。曾根は、梶大助が風呂をたいているはずがないと思ったので、
「わたしがお訪ねするのは、御主人ですが」
と言ってみた。
「はあ、いつもお風呂は御自分でおたきになるんです」
「ほう。風呂をですか」
奇妙なことをする人物だと、曾根は思った。
玄関で靴を脱ぐ時、底のすり減った靴が少し肩身狭かった。
応接間へ通された。八畳ほどのがっしりした洋間である。飾り棚には、いろんな高価らしいものが並べてある。時計、人形、画集、茶碗――陳列品は少し統一のない雑然とした感じである。しかし、そんなところが梶家の応接間らしかった。暫くすると、
「いらっしゃいませ、その節は――」
とびらの把手を回す音がしたと思うと、そんな声と一緒に和服の八千代が姿を現わした。声の方が先きに飛び込んで来た感じだった。曾根は立ち上がった。
「ようこそ」
「は。どうも――」
曾根は、八千代が、東京で見た八千代とは別人ではないかと思った。それほど彼女はこの家で見ると、活き活きして見えた。言葉づかいまでが、少し違うようである。
「お言葉に甘えまして伺いました」
それから、
「すぐお暇しますから、お構いしないで下さい。梶さんにほんのちょっとお目にかかればいいんです」
曾根は言った。夕食の心配でもかけたら悪いと思ったからである。
「まあ、そうおっしゃらずに、ゆっくりなさいませ。――父もいまにまいります」
八千代は、女中の持って来たお茶を曾根と自分の前へおくと、
「わたくし、一昨日参りましたの。汽車が混みまして――貴方の方は如何でした?」
「僕は坐れましたが、大変な混み方でした。もっとも、僕は三等で来たんですが」
「あら、わたくしも三等でしたの。おかしいんですのよ、来る時はお金がないのでいつも三等、でも帰りは二等なんです」
「ほう」
「お金借りにくるんですもの、来る時は、二等へ乗れませんわ」
八千代は笑った。
「結構ですな。お金を借りるところがあって――」
曾根が言うと、八千代はその時気付いた風に、
「父が紹介したところいけませんでしたってね。却って御迷惑おかけしたことになって――」
「いや、いいんです。金というものは、そう簡単にはできないものらしいです」
「その替り、こんどは父に確実なところを御紹介させますわ」
そう言っている時、とびらを開ける音がして、
「曾根さんが来られたんだって」
梶の例の特徴のある低声だった。八千代はすぐ立ち上がって行くと、
「だめ、お父さま、そんな格好で」
彼女は梶を応接間へは入れないで、廊下の方へ押し返した。いったんとびらの外へ押し出されたらしい梶は、
「構わんさ。曾根さんなら構わんだろう。これで失礼しよう」
そんなことを言いながら応接間へはいって来た。工員の作業ズボンのようなものをはき、その上に古シャツをまとっている。
(後略)

『井上靖全集 第十巻』新潮社 71?73P

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