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兵庫ゆかりの文学

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吉川 英治

よしかわ えいじ吉川 英治

  • 明治25~昭和37(1892~1962)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神奈川県横浜市

作品名

黒田如水

刊行年

1943

版元

朝日新聞社

概要




その日の午過ぎである。まだ暑い盛り。
播州の一隅にすぎぬ田舎城といえ、年まだ三十という若い家老は、その健康と、赭ら顔に笑靨を持って、ひとりこつこつと馬を姫路の方へ歩ませていた。
――振向いて、御着城を二度ほど見ていた。
「生きてここへ帰る日はないかもしれない」
と、官兵衛も多少の感傷を抱いていたものとみえる。
真心はついに人をして伏するほかなからしめた。彼の信念は徹った。日頃のねがいは届いたのである。
(小寺政職を主とする御着一城のともがらは、織田方に味方する。しかし策として当分は極力四隣へ秘密を保って行う)
ということに、夜来の評議は、とうとう一決を見て、落着いたのであった。
その結果、
(たれが織田家に使いするか)
となって、当然のように、黒田官兵衛こそと、主君からも家中からも挙げられて、彼がその任に当ることになった。
そう一致したからには、一日も寸時も早くと、彼はすぐ君前に暇を乞い、同座の人々とも袂別して、あの席からすぐに立って、馬を姫路へ向けて来たものであった。
信長はいま岐阜城にいると聞く。その岐阜へ行くべく上方へ出るには、姫路を経るのは順路であるが、道のついでに、彼は生家の姫路城へ立ち寄って、母はもう世に亡いひとだが、老父の宗円にもいとまを告げ、またまだうら若い妻と、ことし八歳になるわが子にも久しぶりにこの顔を見せて行きたいと思った。
「……そうそう、明石へも立ち寄ろう。船でならば、あそこの浦から乗ってもよい」
道中の危険よりは、多くをそういう楽しみに頭をつかった。海路といえ陸路といえ、毛利家の兵力や三好党の密偵のいない所は寸土もないくらいだから、危険と思えば限りもなく危険だったが、分別者のようでも、やはり官兵衛は三十になったばかりの男だった。この使命を持った身には、そんな事など顧みていられぬほど大きな希望と楽しみばかりが胸に醸されていた。
ふと、明石の浦の一庵をいま思い出したのは、そこに幼少のときから好きで好きでたまらないおじいさんが住んでいるからだった。名は明石正風といって、彼とは血も濃い、母方の祖父にあたる人である。
もともと彼の母は、近衛家の縁すじの人の娘であった。その父たりし明石正風も、そうした縁故から、近衛家に出入りし、近衛家の父子に、歌道の相手をしていたが、世が騒がしくなってから、明石の海辺に一庵をむすび、別号を宗和、または隠月翁などと称して、漁師の子たちに、手習いを教え、自らは独り余生を名利の外に楽しんでいた。
(後略)

『吉川英治歴史時代文庫 44 黒田如水』講談社31?33P



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丘の一族



姫路までは一里弱。奔馬の脚では一鞭の間であった。
ここは山陽と近畿の咽喉にあたる要害の地であったが、当時はまだ後に姫路城と称されたあの壮大な景観は備えていなかったのである。御着の本城を防ぐための一支城であったに過ぎず、その壕塁も曲輪造りも極めて簡単な構築で、樹木の多い丘の上に、十数年ほど前から黒田という一豪族が住居を建てて住んでいたというに過ぎない程度のものであった。

しかし、この丘の家に、いつのまにか隆々たる勢力と人望が集められたのは、何といっても、近年のことで、その要因は、官兵衛という総領息子が、親まさりだったからといってさしつかえないようである。
とかく悪口をいいたがる世間の者は、
「――金の力もえらいものじゃ。目薬売りの浪人が、いつのまにやら地主になり、あのように大勢の召使やら馬を持つようになったことよ」
などと今になっても陰口をきく者もないではなかったが、決してそんな金力によるものでないことは、優秀な総領息子が、年を数えるごとに示して、まだ三十になったばかりの官兵衛だが、この姫路の小城も近郷に重からしめ、親の宗円の威徳をもいよいよ高からしめたこと寔に一通りでないものがある。
いったい小寺の領内には、播州の山々や僻地の海浜がふくまれているため、いたるところに土豪が住み、強賊が勢力をつくり、これらの土匪を討伐していたひには、ほとんど、戦費と煩労に追われてしまい、ほかの治政は何もできないような乱脈さであった。
ひとり小寺氏の領内ばかりでなく、諸国どこの領土を見ても、まずこんな実態にあったのが当時の一般的な世相だったといってもよい。そうした世の中なればこそ、一介の目薬売りも、田を持ち、馬を飼い、人を養い、いつか姫路の丘に石垣を築いて、兵器と実力を蓄えれば、四隣の国々とまではゆかなくても、近郷の治安と秩序を握って、ここにひとつの武門を創つこともできるわけであった。
加うるに、この黒田家へは、このとき天が麒麟児をめぐんで、家運いよいよ隆昌を見せた。――その官兵衛を総領に、弟小一郎、ほか二人の妹があったが、何といっても、官兵衛の才幹は十五、六歳からもう光っていた。
母の死後、彼はひと頃、文学になじみ、和歌などしきりに詠み習っていた。これは母方の祖父の明石正風の影響らしかったが、経書禅学の師として奉じていた浄土寺の円満坊から、ある折、
(いまは花鳥風月を詠んでいるときではないでしょう。お祖父さまのような境界のお方はべつですが、あなたはこれからいよいよ烈しい風雲のなかに立ってゆかねばならない弱冠ではありませんか。よくよくいまの時勢を天に訊いてごらんなさい)
と意見されたときから、すぱと歌道を断念して、それからは猛烈に、禅と兵学に心魂をうちこんだということである。
そうした官兵衛なので、もう二十二歳前後には近郷の沢蔵坊という賊魁を討ったり、佐用郡の真島一族を討伐したり、ともあれ姫山の総領が、家の子をひきいて出かければ、必ず勝って帰るという信用を町の人々にも持たれるようになっていた。
黒田という丘の一家を、こうして年々強大にして行ったものは、金の力でも何でもなく、実はこの家を敵としてしきりに反抗し続けた近郷の土豪や強賊だったのである。
(黒田とは、いったい、どんな人物か)
と、御着の城主小寺政職は、あるとき狩猟にことよせてこの丘へ立ち寄った。それが縁となって黒田宗円は以後、小寺家の被官として仕え、やがてまた、その子官兵衛が、父に代って、家老の要職を継ぐようになったのであった。
ほかの譜代にくらべ、年月こそまだ短いが、黒田父子が被官となってからは、小寺家の領内には土匪の横行もまったく歇み、失地は敵の手から回復し、領民はその徳政によく服していた。
だが、そうしてようやく内治が調ったと思うと、こんどは国外からの圧迫がひしひしと、この一小国にも、旗幟の鮮明を促して来た。それもここ二、三年は何とか日和見的態度で糊塗して来たが、いまや急なる風雲はもう一日もそれをゆるさなくなって来たのであった。
(後略)

『吉川英治歴史時代文庫 44 黒田如水』講談社 41?44P

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