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兵庫ゆかりの文学

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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

その人の名は言えない

概要

(前略)
「来週の紀州行き、どうしよう?」
低いが、熱のある声だった。
今日、二人で対い合って坐った食事の席で、佐伯は、来週三日ほど暇があるので紀州へ行きたいが、いっしょに行かないかと夏子を誘ったのだが、夏子はそれに対して確答を与えていなかった。
夏子は前方の暗い植込の闇を見詰めて立っていた。
夕方、この話を切り出された時一度こうと目的を定めたら、躊躇なしにそれに向かって真直ぐに突進んで行く佐伯の性格が、この場合もはっきりと出ていて、女のデリケートな心情などは無視している一抹の不快さはあったが、その反面、男の息吹のようなものを熱く感じたのであった。
(結局、わたしはこの人に押し流されてしまうだろう)
佐伯に対っていると、いつもこんな気持を夏子は感じる。
夏子は、いま、黙ったまま暗い闇を見詰めて立っていた。
「連れてって戴くわ」
と言ってから、夏子は自分が力いっぱい造花の薔薇を握りしめていることに気付いた。これを彼女の胸から抜いてむざむざと床の上に棄てた、だれか知らないが一人の男に対する挑みの如きものが、いまの夏子を支配しているのであった。
自動車が走り出すと、夏子は烈しい疲労を覚えた。取返しのつかないことになったという不安と、これでいいのだという新しい運命への期待が、同時に切なく彼女の心を襲った。

大きい邸宅の続いている暗い道を自動車は走った。ゆるやかな坂を上り、坂を下ると、直ぐ蘆屋川に突き当った。
そこから左に折れて、自動車は川に沿って走った。
「あら沢木よ」
と、突然、秋子が声を上げて、夏子の膝を揺すぶった。
ヘッドライトの届くずっと前方に人影があった。夏子には、直ぐそれが義兄だとは判らなかったが、たちまち距離が縮まって、自動車がそれを追い越す時、ふらふらと路傍に立止まった姿は、確かに沢木だった。
「運転手さん!」
と、夏子が自動車を止めようとすると、
「構わないの、やって頂戴!」
と、秋子は追いかぶせて言った。
あまりその口調が強かったので、夏子は気圧されて黙ってしまった。そして、自動車と沢木との距離が二、三町開いてから、
「意地わるね、姉さん!」
と、夏子は言った。
それに対して、秋子はなんとも言わなかったが、暫くしてから、
「そう、素直でないの、わたし」
と、低い声で、ひとり言のように言った。
姉夫婦の、一見理解し難いような不思議な争いが、夏子には、それとはっきり正体がつかまえられないまでも、なんとなく漠然とは解る気がするのだった。
秋子をこんなにさせる総ての原因は、沢木がこれを持っているようであった。秋子を素直にさせないものが、沢木の人柄のどこかにあった。
恋愛結婚して三年になるが、秋子には安穏な日は一日もないようであった。常に夫との愛情生活において、何ものかと闘っている姉の姿を、夏子は時には哀れに、時には莫迦らしく思った。
「姉さんはやっぱり、兄さんを愛しているわ。なんだかんだというけど」
「どうして?」
「だって、あんなに遠くから兄さんが解るんだもの」
「そりゃ、夫婦だもの」
「夫婦って、そんなもの?」
そして、思わず、
「いやあね」
と言いかけてやめた。実際嫌な気がした。
時計を見ると、十一時に近かった。
夏子は、これから高槻のアパートまで帰ると、大分遅くなるし、それに久しぶりで姉としんみり話をしたかったので、姉の家へ泊ることにした。
自動車は、香櫨園の駅の近くで棄てた。人通りのない道を、姉と妹とは並んで歩いた。五月の夜気の中を、海の香が微かに流れていた。
「わたし、沢木を憎んでいるの」
秋子が、突然言った。秋子の思念が先刻からずっと沢木から離れていないことを知って、夏子は、姉の悩みが、自分などの与り知らぬずっと深いところにあるのかも知れないと思った。
「今度こそ、あの人と別れてしまおうと思うの。わたし、もう、苦しい!」
いかにも苦しそうだったが、姉の別れ話は今までにも何回もあり、殆ど口癖のようなものだったので、夏子はうっかり相槌の打てない気持で黙っていた。「あの人は漁色家なの。次から次へと女のことが絶えないの。今日、井村さんのお嬢さんと踊っていたでしょう。わたし、ただではないと睨んでいるの」
確かに沢木と井村鈴子とが踊っている姿は、夏子の眼にも印象的に残っていた。世の苦労も汚れも知らない萌え立っている花のようなブルジョア令嬢を抱いて、あの時だけは沢木の姿が、日頃の疲れ澱んだ暗いものを払拭して、明るく生き生きとしていた。
「だって、姉さんだって、土門さんとただではなさそうに踊っていたじゃあない?」
「………」
「どっこいどっこいだわ」
と、夏子は言った。
沢木に女出入りが絶えないというなら、姉は姉でまた男出入りが絶えないといってよかった。学生を集めて、幾晩も幾晩も徹夜の麻雀をやったり、若い画家のモデルになってやるのだと言って、連日、その青年のアパートに通ったり、沢木に言わせれば、沢木は沢木で文句が言いたいであろうと思われる所業が、年中、彼女を取巻いていた。
ただ、浮き浮きとそんな事をしながらも、秋子の心が絶えず夫の沢木から離れていないことは、傍からそれを眺めている夏子にも、よく解った。
そして、秋子の愛情の悩みや苦しみに接するごとに、夏子は自分などの全く予想もできない愛情の深い淵というものを、漠然と、不安と好奇心の半ばした気持で覗き見る思いだった。
「ほんと、今度こそ、あの人と別れてしまう」
同じことを秋子がくり返した時二人は一点の漁火も見えない阪神の海の切岸の上に立っていた。(後略)

『井上靖全集 第八巻』新潮社 78?80P

花火

香櫨園の駅の近くで自動車が止まると、
「じゃあ、失礼しますわ」
声だけは確りしていたが、着物の裾を乱して、車外へ降り立った秋子の足許は大分危なかった。
「お金持ってらっしゃる?」
「持ってますよ」
太い低声が聞えたが、直ぐ、
「僕も降りよう。帰りは電車で帰ればいい」
そう言って、この方は確りした足取りで降り立ち、運転手に金を払い、それからゆっくりと煙草に火を点けた。土門久太だった。
「そこの曲がり角まで送ります。暫く海岸をぶらついて僕は帰る」
「一人で海岸にいらっしゃるのなら、わたしもついて行くわ」
「もう、遅くなる、早くお帰んなさい。御主人が心配する」
「なに、おっしゃるの!」
「怖いですよ」
「怖くはないわ」
屋外燈と屋外燈の中間の、四辺が暗くなっているところまで来ると、男は煙草を銜えたまま立止まって、振向くと、二、三歩おくれてきた女の肩を抱いた。あっという間もなかった。
そして、煙草を右手で口から離すと、左手で女を抱きすくめて行った。
「土門さん!」
と、意味不分明に男の名を口に出すと、秋子は、その腕の中から逃れようとしたが、鉄環でしめられているように、身動きできなかった。
長くゆっくりと男の唇が捺された。男の左手が解かれると、秋子は体の中心を失って、それでなくてさえ危ない足がよろよろとよろめいた。
土門の持っている煙草の火が、ふしぎな赤さで、小さく、遠く、秋子の眼に映っていた。毒のある陶酔感が彼女に口をきかせなくしていた。
土門は軽く秋子の肩を敲くと、それが別れの挨拶でもあるかのように、秋子を前に押しやった。秋子は家の方へ曲がる細い坂路を、押されるままに五、六歩降りて行った。そして途中で立止まると、海岸の方へ真直ぐに歩いて行く、長身の土門のうしろ姿が眼に入った。
秋子は、土門の方へ二、三歩、歩みかけたが、そのまま黙って、また坂道を降りて行った。
もう永久に消えない焼印をぴたりと額に捺されてしまった、取返しのつかない気持だった。
微かな悔いと、沢木によって決して知らされたことのない陶酔が、秋子の体からいつまでも消えずに残っていた。秋子は暫くそこに屈みこんでいたが、再び歩き出した。
小憎らしいほど落着いていた土門の動作を思い出すと、秋子は先刻よりひどく酔いの出た歩調で家の方へ歩いて行った。
これくらいのことが、一体、なんだって言うの!沢木だって何をしているか判ったもんじゃない!
秋子は玄関の格子を開けると、いつもなら、
「ただいま」
と二階へ向かって声をかけるのを、今夜は黙って茶の間へ入って行った。
秋子は、いったん茶の間に坐ったが、思い直して二階への階段を上がって行った。いつものようににぎやかな秋子の足取りではなかった。
平気な顔をして会ってやろう、そんな不逞な思いが、秋子の顔を少し青くしていた。短刀でものんでいる気持で、秋子は階段を上がりきったところにある襖を開けた。
沢木は居なかった。
秋子は気抜けした思いで、沢木がいつもそれに向って仕事している机の前に坐った。
こんな時刻、家の戸締りもしないで、どこへ行ったのだろう。嫌になっちゃう。
秋子は、自分が遅くまで遊び歩いて来たことは棚に上げて、そんなことを思った。
そして、ふと、机の上に眼をやった時、原稿用紙に、愛という字が一字だけ書かれてあるのを発見した。
また女からでも手紙でも来ているのではないかと思って、机のひき出しを開けてみたり、そこらに散らばっている書物の頁を、ばらばらとめくって見たりしたが、何も出て来なかった。
しかし、秋子には、原稿用紙の小さい桝目の中に、一字だけ書きつけられた「愛」という文字は、何か秋子を落着かせなかった。不穏な文字のような気がした。
秋子は、机のそばにまるめられてある書き潰しの原稿用紙を開いてみた。
と、そこに眼をやった秋子は、あっと軽い叫び声を上げた。彼女は、恐ろしいものを見たような気がして、それを再びまるめると、いつまでも手の中に握りしめていた。
秋子がそこに見たものは「夏子」という二字であった。「夏子」とだけ書かれて、他には何も書かれてなかった。
どんな女の名前が書かれてあっても、秋子はこれほど大きい衝撃を受けなかったに違いない。
しかし、よく考えてみると、沢木が原稿用紙に夏子と認めたことは、それほど重大なことを意味するものではないかも知れなかった。ただ、なんとなく、夏子のことを思い出し、夏子とその名を認めたのかも知れない。
が、二枚の原稿用紙に、それぞれに認められた「愛」「夏子」の二つの文字は、その瞬間、秋子の一切の判断力を釘付けにしてしまったのであった。
秋子はそこを立上がると、階段を降り、玄関で下駄をひっかけ、そのまま暗い戸外へ出て行った。まだ、土門は海岸にいるかも知れないと思った。
土門に抱きしめられて、思うようにされることだけが、いまの秋子のなし得るただ一つの事のような気がした。
秋子は小さい青い火があちこちで燃えているのを感じていた。そしてその中へ夢中に駈け込んでいる自分を感じていた。
しかし、青い火もなければ、彼女は走っているのでもなかった。彼女は夜風に吹かれながら、のろのろと、海岸の方へ歩いているのであった。
(後略)

『井上靖全集 第八巻』新潮社 158〜161P

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