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兵庫ゆかりの文学

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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

黒い蝶

刊行年

1955

版元

新潮社

概要

(前略)

阪急電車を蘆屋川で降り、川の堤に沿って浜の方へ降りて行くと、途中右手へ折れる何本かの道がある。道はどれも堤から降りる所はかなり急な坂道になっているが、やがてそれが平坦になるあたりから、両側に大きな石垣や生垣で囲まれた邸宅ばかりが並び始める。この附近一帯が大部分戦災で焼失した蘆屋市の中で、僅かに残っている戦前からの高級住宅地帯である。
江藤邸はこの高級住宅地のほぼ中央と目されるところに、碁盤の目のように走っている道路にその三方を取り巻かせて、近代風とは言えないが目立つ大きな構えを持っていた。
屋敷は高い石塀で囲繞されてあり、表の道路からは、かなり鬱蒼と茂っている邸内の樹木の梢と、その間から顔を覗かせている和風建築の二階の一部が見えた。
三田村は小門のベルを押し、女中に門を開けて貰って内部へ一歩踏み込んだが、邸内は何となく荒れている感じであった。樹木の手入れはされてなく、閉めきった大門の裏側は破損したままになっていて、庭の隅の方には雑草が生い繁っていた。
車寄せのある表玄関は使うことはないのか閉められてあった。三田村が内玄関の三和土の上に立っていると、庭伝いに横手に去って行った女中に替って、三十ぐらいの和服の女性が姿を現わした。三田村は鄭重に名刺を出して主人の在否を訊ねた。
「兄でございますか。ただいまちょっと――」
女はあいまいな言い方をして、失礼だが、どんな用件であろうかと訊いた。江藤を兄と称ぶ以上彼の妹であろうが、三田村はこの女性の顔に正面から眼を当てた時、おや!と思った。その面差しにはどことなく亡くなった江藤良里子を思わせるものがあった。三田村は良里子とは病室でたった一度しか会っていなかった。それもほんの短い時間、彼女が横臥している寝台を斜め上から覗き込んだだけのことだったが、その時受けた印象と同じものを、彼は今自分の前に坐っている美貌の女性から受けた。しかし、やがて三田村は、その印象の根底を為すものが、全く、冷たく強い感じの彼女の澄んだ大きな眼であることに気附いた。この眼を除けば良里子の方は三田村が一眼見て混血児だと判ったように、どこか日本の少女とは違ったものを持っていたが、今彼の前にいる女性の身につけているものは全く日本的なものであった。表情も動作も虔(つつま)しく優雅であった。
三田村が自分は亡くなった良里子の病室を二度程訪ねたことのある者だと言うと、「ちょっとお待ち下さいませ」
胡散臭い者でないと思ったのか、若い女性は立ち上がって奥へ去って行った。
暫くすると、思いがけず、どなたですか、と言う声が三田村が背を向けている玄関の外部の方から聞えてきた。三田村はその方を振り返った。江藤弥介が、庭男でもしていそうな恰好で、ちょっとこちらを窺うような表情で立っていた。モーニングの古ズボンを履き、年季のはいったセーターを着て、今まで庭弄りでもしていたのか手は泥で汚れていた。
「三田村です」
江藤はなおも窺うように見守っていたが、そのうちに気附いたらしく、やあと、例の羸弱(ひよわ)な笑いを顔に浮かべて、
「貴方でしたか」
と言って懐しそうに眼を輝かせた。よく来て下さいましたね、どうしていらっしゃるかと思っていましたよ。そんなことを言いながら、彼は玄関へはいって手を叩いて先刻の女性を呼ぶと、三田村を奥へ上げるように命じた。
通された応接間は採光は悪かったが、さすがに江藤家のそれらしく立派だった。何十畳敷かちょっと見当がつかない広さを持ち、置かれてある調度品の加減か、外国の古い寺院か博物館を思わせるような古く湿っぽい、しかし落着いた空気が漂っていた。入口に近い壁から正面の窓際にかけて、高価ではあろうが坐りにくそうな木製の椅子が二十個近く並び、所々に小さい茶卓子が配されてある。中央には重大会議でも行われなければ恰好のつかないような樫の大きな角卓子が据えられ、そこにやはり窓際の椅子と同じ木製の椅子が対かい合って三つずつ置かれてあった。そして入って左手の隅の窓際にだけ明るい色調の革製のソファと肘掛椅子と円い卓子があった。この一角だけが他の席とは違って居心地よさそうな雰囲気を持っていた。
奥の突き当りはマントルピースになっており、その辺は外光が届かない加減か、何か装飾品がごちゃごちゃと床の上や台の上に置かれてある感じで、それがいかなるものであるか、部屋へはいって来たばかりの三田村の眼には判らなかった。
若い女性は三田村を真ん中の卓子に対かわせると、直ぐまた部屋を出て行った。
女中の手で茶が運ばれて暫くすると、先刻の服装のままで手と顔を洗っただけらしい江藤が、豪華な応接間には不釣合な姿を現わした。
「この頃百姓をやっているんです。庭を遊ばせておくのも勿体ないし、庭園にしておいて高い税金を掛けられるのも莫迦らしいと思いましてね」
そんなことを言いながら彼は近寄って来た。挨拶をすませ暫く雑談していたが、その間も三田村はどういうところから話を切り出そうかと考えていた。
が、やがて三田村は言った。
「今日は実はお詫びに上がりました」
「お詫びと言いますと?」
江藤は怪訝な顔をしたが、丁度その時先刻の女性が何種類かの干菓子を盛った菓子皿を持ってはいって来たので、
彼は、
「妹です、私の――」
そう言って三田村に彼女を紹介した。
「舟木でございます」
江藤の妹はしとやかに頭を下げたが、顔を上げると、彼女は上体をすっくりと伸ばすような姿勢を取って、にこりともしないで、三田村の顔に真直ぐに視線を当てた。高慢ちきとも一途とも見える表情だったが、この女はこういう時が一番美しいのかも知れないと思った。
「舟木さんとおっしゃるんですか」
「舟木みゆきと申します」
すると江藤が横から、
「舟木千之助という学者を御存じありませんかね。法律学の――」
と言った。
「舟木!?」
三田村は曖昧に言った。全然知らなかった。
「その舟木のところに嫁いでいるんです」
江藤が言ったが、舟木夫人は口許に微かな笑いを、それと判るか判らない程度に浮かべただけで、三田村の方へちょっと会釈するとそのまま窓際の方へ歩いて行った。三田村は彼女が部屋の隅の、この部屋では一番坐り心地のよさそうなソファの端に腰を降ろすのを見た。三田村は斜め横から暫くの間見るともなしに彼女の方へ眼を遣っていた。
(後略)

『井上靖全集 第十一巻』新潮社 36〜39P

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