常設展示

兵庫ゆかりの文学

  1. TOP
  2. 常設展示
  3. 兵庫ゆかりの作家
  4. 兵庫ゆかりの文学
  5. 美也と六人の恋人

井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

美也と六人の恋人

概要

(前略)
小津がちょうど十年ぶりで、真門美也に会ったのは今年の五月だった。
その時小津は東京を朝の特急でたって、大阪へ着いたばかりで、鞄一つ持って、駅の東出口を出、神戸行電車に乗るために、阪急ビルの一階の切符売場の方へ急いでいた。呼びとめたのは美也の方からだった。
「小津さんじゃありません?」
美也は少し険しいくらいの生真面目な表情で、ラッシュアワーの雑沓の中に立っていた。戸外の光線の中で見るのでないからよくは判らなかったが、喪服とでも思われそうな黒っぽい着物をきていた。しかし、喪服でないことは、これはまた思いきって派手な朱の帯が、彼女の長身を二つに割っていることで明らかだった。
小津はすぐ彼女が、数人の若い花やかな令嬢たちと一緒であることを見て取った。その仲間は、美也から一間ほどのところで立ちどまって、やはり雑沓の中にもまれながらこちらに視線を投げて美也を待っていた。美也よりはずっと若い一団で、なんとなく美也がその統率者といったその場の感じだった。
小津は突然のことだったので、とっさに適当な言葉が見付からず、
「ずいぶん、久しぶりですね」
と月並な言葉を口に出した。自然に口辺の筋肉が奇妙に歪んでくるのを彼は感じた。
「どちらへ」
美也は見据えるような固い表情のままで言った。
「芦屋の親戚へ行くところです。いま大阪へ着いたばかりです」
「わたしの方は、いま芦屋から、京都へ戻ろうとしていますの」
それになんの意味もあろうはずはなかったが、ちょっとぴしゃりとした言い方だった。
「芦屋のお宅にお電話ありますの?」
小津は洋服の内ポケットから手帳を取り出すと、そこに書き付けてある親戚の電話番号を言った。
「覚えられませんわ」
美也はすっくりと立った感じで、目は小津の目に当てたまま、表情を動かさないで言った。小津はその番号をノートの一枚に書き付けて、それを破いて美也に差し出した。
美也はそれを受けとると、
「では」
そう言って、彼女は初めてその時体を動かしてかるく会釈すると、そのまま身をひるがえして、連れの方へ歩いて行った。そうした相手を突きはなすような身のひるがえし方も、小津の記憶しているものだった。
小津はホームへ出て、神戸行特急を待っている人たちの列にはさまっている時、真門美也に会った興奮が自分をおそっているのを感じた。一日中列車の震動に揺られ続けた疲労とは別の疲労が、小津の全身に徐々にけだるくかぶさって来ていた。電車を待つ五分ほどの時間が彼には耐えられぬほど長く感じられた。
小津は鞄を足もとに置き、たえず発着しつつある電車と、そこから吐きだされたり、そこへ吸いこまれたりしている幾つかのホームを埋めている人波に、ぼんやりと視線を当てていた。小津は真門美也とかわした短い言葉のやりとりをフィルムを巻くように次々と逆に思い出していた。美也が電話番号を書いた紙片を受けとった時や、別れる時の会釈の仕方などの、そうした小さい仕種が、それにつれて一つ一ついきいきと蘇っていた。そして、美也が終始顔をにこりとも綻ばさず、初めからしまいまできびしいくらいの堅い表情を持ち続けていたことに気付くと、小津は、そのとき長く忘れていた往年の美也への思慕が、性こりもなくまた新しく疼いて来るのを感じた。
美也は十年前と少しも変っていなかった。この十年間に少しも年齢のかげりを身に着けなかったと言うより、十年前にすでに、現在の三十歳を二つ三つ越しているはずの年齢の重みを、その美貌にも、容姿にも着けていたと思う。急行を西宮で降りて、普通電車に乗り換え、芦屋の小さいホームへ吐き出されるまで、小津は頭をまったく美也のために占領され続けていた。
小津は芦屋の駅を降りた時、いつも山手の方を眺めるのが好きである。山の形はひどく無愛想にでこぼこしている。樹木も山肌もはぎ取られ、石や断層を露出している大きな崖をかかえて、ひどく荒涼とした感じの斜面のあちこちに、城砦のような感じの邸宅がばら撒かれている。そして芦屋川は、その山の大きな割れ目から、いつもどこかで造岸工事をしている石のごろごろしている不様なその長い姿を、海の方へ向かって投げ出している。水の涸れた河床のいくつかの大きい屈曲は、これまた荒涼とした河の屍の感じである。月明の夜だけ、この高級住宅地を抱く山と、そこを貫き流れている川はある美しさを持って来る。月光を浴びた時だけ、この無愛想な自然は濡れたように息づいて、関西の他の景勝地のどこにも見出せぬ、傲岸不遜な独特な美しい面貌を持ってくる。
小津は保険会社の社長をしている義兄の家がここにあるので、この二、三年関西へやって来るとたいていの場合、そこに厄介になる。偏食と寝つきがわるいことのため、旅館やホテルヘの宿泊は二日と続かず、いつも義兄の家を定宿としている恰好だが、しかし、芦屋の義兄の家へ来るということの底には、もうその痕跡をもとどめていないと思っていた真門美也への関心が、意識のひだの奥まったどこかにひそみ匿されていたかもしれなかった。
(後略)

『井上靖全集 第三巻』新潮社 422〜424P

井上 靖の紹介ページに戻る

ページの先頭へ