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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

明治の風俗資料

概要

(前略)
しかし、まあ、京都、大阪、東京といった都会は、これを舞台に書いた小説もたくさんあり、随筆もたくさんあるのでありますが、その他の都市になると、ずっと少なくなる。たとえば明治の神戸を書こうとしますと、なかなか厄介であります。最近必要があってモラエスの述作の幾つかを読みましたが、モラエスは明治三十年代の神戸をよく書いていると思いました。モラエスは外国人の目で日本を見ておりますので、小さいことも大きいことも心に感じたままに書いている。そういう意味で、モラエスの文章は三十年代の神戸、大阪を知る上には、その文学的価値とは別に、風俗資料的価値を持っているものだろうと思います。
モラエスは、明治三十二年から大正二年までの十五年間、神戸と大阪に住んでおります。そして、その当時の神戸、ひろく関西の風俗に関して自分の見たものは見たままに書いております。明治三十年代から四十年代、つまり、日清戦争から日露戦争へかけての神戸付近を書くということになりますと、モラエスの書いた物を無視することはできないのであります。沢山の資料がそこには詰めこまれております。文学的な価値については、改めて言うまでもありませんが、日本を詳しく初めて外国へ紹介した。そういう意味では私たちにとってモラエスは大へんな恩人であります。
今日小説家としての私には、たくさんの当時の風俗資料をつめこんだ作品として、モラエスの初期の「大日本」とか、あるいは「シナ・日本風物誌」とか、そういったものは、たいへん有難いもので、私に限らず多くの作家がこれから非常にたくさんの恩恵を蒙るのではないかと思います。「シナ・日本風物誌」の中に湊川神社の祭礼のことが書いてあります。非常に詳しく祭礼当日のことを書いて、その雰囲気も見事に捉えております。この祭礼ぐらいは日本人が書いておいて然るべきでありますが、不思議と書いていない。なかなか私も自分の町のあるいは郷里のお祭りのことなどは書かないのであります。モラエスは異国人として初めて日本に来まして、そして日本を愛情を持って見詰め、そしてその日本がふしぎに美しい自然と人情を持った国だという、そうした驚きの気持で自分の目に映った風物を全部書きつけております。だから湊川神社の祭礼をあれほど細かく丹念に書きとめることができたと思います。そして、これだけの神社の祭礼の描写は他にないのではないかと思います。
こういう例はいくつでも取り出せます。例えば、モラエスが神戸郊外にあります布引の滝へ参ります。そこに茶屋があり、きれいな娘さんが二人いる。それを強い感動をもって書いておりますが、面白いことにその布引の滝が壊されることになってしまう。モラエスはそれを非常に惜しがっております。どうしてそういうことになったかと申しますと、これもモラエスの説明によりますと、長崎と大阪と東京の三つの都市にあった水道がいよいよ神戸にもまた引かれることになる。モラエスは神戸にも水道が引かれるようになったらおしまいだ。あの日本の生活の特殊な形としてあった「つるべ井戸」も、あるいは路地の中にあった井戸も、そしてまたおかみさんたちが全部集まってその日の話をいろいろと報告し合った井戸端会議もみんななくなってしまう。本当にもう末世である。どこかに末世という言葉を使っておりますが、モラエスはそのくらいの嘆き方をしております。そして、水道を引くために、布引の滝の近くの岩がダイナマイトで壊され、布引の滝の水が貯水池に引かれ、そしてそれが神戸の水源になる。そういうことを書いております。しかしこれなどもモラエスが書いてくれておいたから初めてそういうことが判るのでありまして、もしこのモラエスの文章がないと、どこでそういうことを調べたらいいのか判らないのであります。それから一般の何でもない関西の神戸付近の庶民の生活をいろいろ書いてあります中で、面白いと思いましたのは、どこのお寺でも四月八日には、お釈迦様の生まれた日を祝って甘茶のお祭りがある。そしてそのお祭りの日のことを書いております。私などもこの四月八日のことは知っておりまして、甘茶を貰いに行ったことがあります。しかしもう私が中学時代になりますとそういう風習はなくなりました。それはともかくとしまして、神戸ではどこのお寺でも花御堂を作って甘茶のふるまいをした。子供たちは甘茶をもらって、それを花御堂のお釈迦様の体にかける。その花御堂の横に卯の花と齊の店があった。こういう店は神戸だけかもしれませんが、ともかくモラエスのおかげでそういう店のあったことがわかる。そこへ行く人たちは全部竹の筒を持って行って子供にわずかな金を払って甘茶を買う。そして戒名を塔婆に書きつけ、その戒名に店で買った卯の花と齊を添えて花御堂に供える。こうしたことが書かれております。お釈迦様の四月八日の日を、なかなかこれだけ細かく書いた記述というものは他にないのではないかと思います。
いまモラエスが日本の自然のこわされて行くさまを見たとしましたら、どのような嘆き方をすることであろうかと思います。荷風は明治にフランスから帰って、間もなく京都にまいりましたが、その時、どんどん自然がこわされていく、もう東京は手が付けられなくなったが、せめて京都はと思って来たが、その京都もだめになった、と嘆いております。この荷風の文章を読みますと、五十年ほど違っているんじゃないかと思うほどであります。

それはさておき、地方の明治を書くとなると資料はずっと少なくなる。藤村の「千曲川のスケッチ」は、そういった意味では信濃を調べる上には欠くべからざる資料であろうと思いますし、草津方面を調べようと思うと、志賀さんの「草津温泉」は欠くべからざる資料ということになりましょう。
明治は遠くなりにけりと申しますが、たしかに明治は遠くなった感じでありまして、明治の文学作品がその文学的価値とは別に資料的価値を持ち始めております。そしていまや全く私たち小説家にとりまして明治は歴史時代に入ったと言えると思います。
(昭和四十五年九月)

『井上靖全集 第二十四巻』新潮社 623?625P

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