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兵庫ゆかりの文学

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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

猟銃

概要

(前略)
ああ、あの阪神間が火の海のようになった、八月六日の夜のことを思うと、私の胸は張り裂けそうで御座います。あの晩は薔子と二人でずっと貴方の設計なすった防空壕の中に這入っていたのですが、何回目かのB29の機械音が、頭上の空一面を覆った時、私は突然自分でもどうする事も出来ない、虚しい淋しさの中に突き落されました。なんとも言い現わしようのない、心の滅入りそうな淋しさでした。ただもう無性に淋しかったのです。私は到頭そこにじっと坐っていられない気持になって、その時、ふらふらと壕の外に出ようと致しました。とそこに貴方は立っていらしったのです。
西も東も空は一面真赤にただれていました。貴方のお宅の御近所に火の手が上り始めているのに、貴方は私のところへ駈けつけて来て下すって、私たちの防空壕の入口に立っていらしったのです。それから再び、私は貴方と御一緒に防空壕の中に戻りましたが、壕の中へ這入ると、今度は声を上げて泣き出して仕舞いました。薔子も貴方も私のそうしたヒステリックな動作を、恐怖の余りの発作だとお考えになっていたようです。私にもまた、その時の気持についての上手な説明はその時でも後でも結局出来なかったようで御座います。許して下さい。あの時私は、貴方の勿体ない程の大きい愛情に抱かれ乍ら、貴方が私たちの防空壕に来て下さったように、私もまた、いつか汽車の窓から一回だけ見たことのある、兵庫のあの清潔な感じのする白いペンキ塗りの、門田の病院の防空壕前に立ちたかったのです。やもたても堪らぬその欲求に身を震わせ、涙にむせびながら必死に堪えていたのです。
しかし、これが、私が自分のそうしたものに気付いた最初の時ではありません。それよりも何年か前、京都の大学の建物の中で、貴方から私が一匹の白い小蛇を持っていると指摘された時、私はぎょっとして其の場に立ちすくんだのでした。あの時ほど、貴方の瞳を怖ろしく感じたことはありませんでした。恐らく深いお考えはなくて仰言った貴方のお言葉でしたが、私は心の中を見すかされたような気がして、身のちぢむ思いでした。それまで本物の蛇に当てられて、胸がむかむかしていた気分の悪さも、お蔭でいっぺんに消し飛んで仕舞いました。そして怖る怖る貴方のお顔を窺って見ますと、その時、貴方はどう言うものか、ついぞなすった事もないのに、火の点いていない煙草を口にお銜えになったまま、何処か遠いところを見入っていらっしゃるお顔で、ひどくぼんやりして立っていらっしゃいました。気のせいか、私の見知っている貴方のお顔の中で一番うつろなお顔でした。が、それも一瞬のことで、こちらをお向きになった時は、もう穏やかな常の貴方でした。

それまで私は、私の中にいるもう一人の私を、はっきりした形では掴んで居りませんでしたが、貴方の御命名によって、それ以来それを白い小蛇として考えるようになりました。その夜、私は日記に白い小蛇のことを書きました。白い小蛇、白い小蛇と日記帳の一頁に、幾つも幾つも際限なく同じ文字を並べながら、自分の胸の中で、きりっと寸分のたるみもなく幾つもの輪を巻いて、その輪は頂に行く程小さくなり、そしてその頂から、小さい錐のように尖った頭を真直ぐに天に向けている、まるで一個の置物のような小蛇の姿態を思い浮べて居りました。自分の持っている怖ろしい嫌なものを、このように清潔な、しかも何処かに、女の悲しみといちずさを現わしているような形で想像することは、せめても心休まることでした。神さまだって斯うした小蛇の姿態を、いじらしい、切ないものとしてごらんになるに違いない。お憐れみになるに違いない。こんな虫のよいことまで考えたものでした。そしてこの夜から、私は一廻り大きい悪人に成長したようで御座いました。

そうです。ここまで申し上げたのですから、やはり総てを認めて仕舞いましょう。どうかお怒りにならないで下さい。それは、十三年前のあの熱海ホテルの風の強い夜のこと、貴方と私が自分たちの愛情を育てるために、世の中の全部の人を騙そうと、大悪人の悲願を立てたあの夜のことで御座います。
あの晩二人はあんな大それた愛情の誓約を交した直後、もう何もお話することがなくなって仕舞って、糊のよくきいた白いシーツの上に仰向けに横たわって、何時までも黙ったまま眼の先の闇を見詰めて居りました。あの時の静かな時間ほど、私にとって、不思議に印象深い時間はありません。五分か六分の極く短い時間だったでしょうか。それとも三十分も、一時間も、二人はそうして黙っていたのでしょうか。
あの時、私は全く孤独でした。貴方がお傍に同じような姿態で横たわっていらっしゃることも忘れて、私は私一人の魂を抱いていたのです。二人の愛情の、謂わば秘密の協同戦線が初めて結成された、二人にとってこの上なくゆたかであるべき時、私はなぜあのように救いのない孤独の中に落ち込んでいたのでしょう。
あの夜貴方は、世の中の全部の人をお騙しになろうと決心なすった。しかし、よもや、私と言う人間だけはお騙しになるお考えではありませんでしたでしょう。それなのに、あの時私は、貴方をも決して例外には考えていなかったのです。みどりさんも、世の中の全部の人も、そして貴方もそれから当の私自身さえも、長い一生騙し切ってやろう、それが自分に与えられた一生なのだと、そんな思いが鬼火のように孤独な魂の底で、ちろちろと燃えていたのでございます。
愛情とも憎悪とも区別のつかぬ門田への執著を、私はどうしても断ち切らねばならなかったのです。なぜなら、私は門田の不貞を、たとえそれが如何なる過失であれ、どうしても許すことが出来なかったからで御座います。そしてそれを断ち切るためには、もう自分がどんなになろうと、何をしようとかまわないと思ったのでございます。私は苦しかったのです。ただもう自分の苦しみを窒息させることの出来るものを全身で求めていたのです。

――そして、ああ、なんとした事でありましょう。あれから十三年経ちました今日、すべてはあの夜といささかも変っていないようで御座います。
(後略)

『井上靖全集 第一巻』新潮社 490?492P

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