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兵庫ゆかりの文学

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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

『闘牛』について

概要

昭和二十二年一月、新大阪新聞社主催で闘牛大会が西宮球場で開かれた。闘牛大会といっても伊予宇和島で昔から行われている牛相撲を阪神に持って来て、それを近代的大スタジアムの中で行ってみたらというのが、主催者側の最初のアイデアであったようだ。
一日私も闘牛見物に会場へ出掛けた。みぞれの降る寒い日だった。天候に崇られてその日の入場者は極めて少かった。リングの中央で、角を突き合せたなりで微動だにせぬ二頭の牛。それを取巻くまばらな観衆。垂れ下っているのぼり。スタンドの所々から人々は外とうのえりを立てて、声もなくリングを見降ろしている。その会場に立てこめている異様な空気が私の心に冷たく突き上げて来た。恐らく西宮球場が、あのような一種異様な悲哀感にぬれ、ふしぎな緊張感に満たされたことは後にも先きにもないことだろうと思う。
私はその日の会場の詩を書きたいと思った。その会場の悲哀は、闘牛そのものから来るものではなく、終戦後一年半の、あの時代の日本が、日本の社会が、日本人のすべてが、意識すると、しないに拘らず、だれも持っていた悲哀に他ならなかったから。
実際にはこの闘牛大会は新聞社の思惑としては宣伝効果からみても大きい成功をおさめ、新大阪はために勇名を天下にとどろかしたが、私は勝手にそこから会場の詩だけを拝借して来た。会場の詩を頂きに置いて、それをささげもつ台坐をフィクションで構築し、時代相を把握した一種の社会小説を意図した。併し、乏しい私の才能は、時代の表面的な現象だけをなでるにとどまり、結局はあの時代の何ものをも描き出すことはできなかったようだ。
(昭和二十五年二月)

『井上靖全集 別巻』新潮社 P139、140

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