常設展示

兵庫ゆかりの文学

  1. TOP
  2. 常設展示
  3. 兵庫ゆかりの作家
  4. 兵庫ゆかりの文学
  5. 闘牛

井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

闘牛

概要

津上の立っているスタンドの最上層からは、遠く六甲の山裾まで続いている田と畑と、その中に散在する工場や小さい家々の茂りが、重い暗灰色の雨雲の下に寒々と拡がって見えていた。瀬戸物の絵を見るような凍りついた冷たい風景であった。六甲の山巓近い箇所のところどころに、雪が白く幾条かの線を引いて残っていた。その頂の斑雪だけが現在の津上の疲労を救っていた。敗亡のこの国からすっかり姿を消した清らかなものが、落ちのびてそこだけに集まり、互いに寄り添ってひそひそと何かを語り合っているように思えるのであった。グラウンドの一隅に作られた委員席の附近では、尾本と五、六人の社員たちが歩き廻っていた。いつかリングサイドの出場牛の繋ぎ場には、牛の名前を染めぬいた数条の幟が立てられ、幟は言い合わせたようにびくりとも動かず、重く垂れ下っていた。津上は忙しく立ち働いたこの三カ月の間、かかる索漠たる侘しい闘牛大会の情景を一度も想像したことはなかった。なんという大きい違いだったろうと思う。しかし彼は、自分をも含めてこれらすべての情景を、結局はつき離して眺めているのであった。今やはっきりとした社の莫大な損失を、少しでも少なくしようとする尾本の持つ執着も焦りもなかった。あるものは、徐々に歴然として来る大きい誤算への、堪えられぬ寂寥感だけであった。四つに組んでじりじりと土俵際まで押して行きながら、軽く打棄りを喰った自分の不覚さへの堪らぬ不快感だった。彼は朝から自尊心と自信の喪失に対して本能的に闘っていた。津上の眼がこの日ぐらい冷たく傲岸に見えたことはなかった。
それでも定刻の二時には、五千程の観衆がばらばらと内野スタンドにばら撒かれたが、尾本の開会の挨拶が場内に備えつけられた三十六のスピーカーからいっせいに飛び出して、虚ろに球場の隅々までに響き渡った頃から、再び雨が落ち始め、最初の取組である二頭の牛がリングの中央に引き出された頃は、雨脚は次第に繁くなるようだった。
「やっぱり出来ませんぜ。観衆は帰り始めています。やめましょう」
もうこれ以上は我慢がならんといったように、Tが委員席の津上のところへやって来て言った。
「やめよう、放送してくれ」津上はきっぱり言うと立ち上って、ずぶ濡れのまま一歩一歩確りと地面を踏むような恰好でそこを離れ、グラウンドを斜めに横切ると内野スタンドの階段を上って行った。
(中略)
「いま川崎牛と三谷牛を最後まで闘わせることに決めた拍手ね、あれは大体、全観衆の七割あったと思うんだ。考えてごらん、この退屈な長い試合に倦怠を感じていない人間が、ここに集まっている人間の七割を占めているんだ」
津上は敵意とも軽蔑ともつかぬ視線でリングの方をねめ廻していたが、唐突にこんなことを言った。そしてちらりとさき子の眼を見詰めると、
「つまりそれだけの人間がこの競技に賭けているということさ。彼等は牛の勝敗ではなく、自分達の勝敗を決めてしまわねばならないんだ」
微かな笑いが津上の口辺に漂っていた。それがさき子にはひどく冷たく思われた。賭けると言ったら、第一に新聞社が賭けているじゃあないの、社運を賭して、とさき子は思った。田代も賭けている、尾本も賭けている。三谷はなも賭けている。
「みんな賭けている。あなただけね、賭けていないのは」
言ってからはっとした程、この言葉は瞬間、さき子の口から滑り出た。ちかりと津上の眼が光った。何処か悲しさのある昂然とした眼であった。
「だって、何故か、わたしそんな気がするの。今日のあなたを見ていると」
さき子は自分でも気付いた剃刀のような感じの自分の言葉を、一応弁解するつもりで、追いかけてこう言ったのだが、急に全く思いがけない悲しみとも怒りともつかぬ激情が、さき子に全身で津上にぶつかりたい衝動を感じさせた。それでさき子は今度ははっきりと憎しみの感情をこめて言った。
「あなたは初めから何も賭けてはいないのよ。賭けられるような人ではないわ」
「じゃあ、君はどう?」
津上は何気なく言ったのだが、さき子は、はっとして息をのんだ。そしてさあっと自分でも気が付く程血の気のひいた顔をゆがめて笑うと、
「もちろん、私も、賭けてるわ」
と一語一語切るように言った。実際さき子は賭けたのだった。君はどう、と津上に言われた瞬間、さき子は津上と別れるか別れないかの苦しい長い命題を、反射的に、いまリングの真中で行なわれている二匹の牛の闘争に賭けたのだ。赤い牛が勝ったら津上と別れてしまおうと。
(後略)

『猟銃・闘牛〈井上靖小説全集1〉』新潮社 82〜83、90P

井上 靖の紹介ページに戻る

ページの先頭へ