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兵庫ゆかりの文学

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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

射程

概要

三章

五時に諏訪高男は阪急の蘆屋川駅の改札口を出たところで、そこで落合う約束になっている相模兵太の現われるのを待った。相模はこの日布施に出来かかった仕事があるとかで、珍しく朝早くから出掛けて行ったが、この時刻には間違いなくここにやって来ることになっていた。
高男は約束の時刻を少し早めに決め過ぎたことを、この駅に降り立った時知った。まだ辺りは明るかった。駅のすぐ横手には、深く掘りえぐられたように落ち込んだ蘆屋川の水のない川床が、急にこの二、三日春めいて来た夕明りの中に白い腹を見せて横たわっていた。そして数分おきに発着している上り下りの電車から吐き出された人々が、その度に蘆屋川の両岸の道をぞろぞろ歩いて行った。
この付近一帯の地は、戦争前までは所謂蘆屋人種とよばれた富裕な階級の人々の住宅地として知られ、阪神間でも一種の特殊地帯を形成していたが、戦争の何年かが、この土地が曾て持っていたそうした特殊性を完全に取りあげてしまっていた。終戦直前に戦災で市街の三分の一程が焼き払われ、まだ処々に戦火を免れた城郭のような大邸宅も残っていたが、それは今は栄光や富裕とは無縁なものに見えた。手入れをしていない庭や、壊れたまま修理もされていない洋館は、寧ろ毛をむしり取られた孔雀のように惨めにさえ見えていた。
高男は改札口のすぐ傍の、蘆屋川に沿った道に植わっている一本の桜の木の下に立っていた。電車が着く度に、彼は改札口から吐き出される人々の方に視線を投げ、もはやそこから人々が出尽したと思うと、すぐまた足許に落ち込んでいる蘆屋川の川床に眼を遣っていた。昭和九年九月の風水害の時に山から転がり出て来た大小の石が、まだその川床には数多く散在していた。
高男の家はこの蘆屋川が海へはいる河口近くの住宅地にあった。その一画が戦火を免れたのは、そこが海岸に近く、付近に松林が多かったためである。いま高男が立っている阪急の蘆屋川駅からでは、川に沿った道を真直ぐに下るのが一番近道だが,それでも高男の脚で二十分はかかるだろう。その間に、省線、阪神の二本の電車の線路と国道がこの蘆屋川と直角に交叉している。
高男が大阪から来るのに自分の家に一番近い地帯を走っている阪神電車を選ばなかったのは、電車内でも降車駅付近ででも、知人と顔を合わせる懸念があったからである。勿論、この土地で生まれここで育った高男の知人というものは市の到るところに散らばっていたが、それにしても、自家の付近の人たちが特別の場合のほか、この一番遠く隔たった山手の阪急線を利用していないことだけは明らかであった。
約束より三十分程遅れて、相模兵太は改札口から姿を現わした。まだ暗くなっていなかったので、二人は駅の表口の方にある小さい商店街へと足を向け、うどんの看板を上げてある一軒のバラック建ての店にはいった。店の内部には粗末な卓が五つあったが、そのどれをも三、四人の客が取り巻いていた。高男と相模は子供連れの中年の夫婦者の卓に割り込んで席を取った。向う側の壁には食物の値段を一枚一枚に書きつけた紙が貼りつけられてある。餅一個五円、おはぎ一個五円、ぜんざい十円、うどん十円、おでん一皿十円、まんじゅう一個六円、シュークリーム一個六円、すし一皿十円。
「片っ端から一皿ずつ食ってみるか」
相模はそんなことを言った。隣の卓へ運ばれて来たすし皿を見ると、相模の言うように一通り全部食べても胃の腑を完全に充たすことは難かしそうに思われた。
「全部で六十二円か!二人で百二十四円だな」
高男が全部注文しかねないのを見ると、相模は本当に注文するのか、やめとけよと、それを制して、
「あとですき焼でも何んでもうまいものをふんだんに食わしてやるからな」
それから自分でうどんを二つ注文し、急に顔を高男に近づけると、
「ダイヤは天王寺で買うところがあるんだ。当ってみたら、真物の場合、一カラットぐらいんなら五、六万から八万位で引取るそうだ」
と囁いた。
「それじゃ相当になるな。おふくろのは確か三カラット以上あるし、姉のだって二つとも一カラットは超えていると思うんだ」
「すると、三個で三十万円ぐらいになるじゃないか。凄えもんを持ってやがるんだな」
相模は改めて見直すように高男の顔に眼を当てた。
「そんなところは、俺の親父は抜け目ないんだ」
「うまく持ち出せるか?」
「多分な」
寒い間は、姉たちはタ食後すぐには自分の部屋に引き揚げないで、茶の間に居残ったままごろごろしている筈だった。遅くなると二人ともそれぞれ自分の部屋へはいって眠るので、仕事はそれまでに片付けてしまわなければならなかった。マア公とチイ公の部屋は、玄関を挟んで応接室の反対側に並んでいたが、ダイヤがしまわれてある整理箪笥は玄関から遠い方のチイ公の部屋の方に置かれてある筈だった。
六時を廻ると、急速に戸外は暗くなった。それと一緒に、高男はこれから自分の家ヘダイヤを盗みに行くことの鬱陶しさが、次第に心に重く沈澱して来るのを感じた。
 (後略)

『井上靖全集 第十一巻』新潮社 198?200P

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