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兵庫ゆかりの文学

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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

星の屑たち

概要

江戸光子から二、三日前私の勤先である大阪のK商事会社の方へ電話があって、いろいろ心配して戴いた司きよ子との悶着も、二人の間に話がついて、どうにか問題も落着した、どうかご安心戴きたいということだったが、私は会社の用事で神戸へ出た序でに、元町の喫茶店からP舞踏会館へ電話して、江戸光子を呼び出した。
話がついたと言っても、どんな風に話がついたのか、その成行に多少の興味もあったし、幾分の懸念もあったので、会えたら会って直接江戸光子の口から事情を詳しく聞きたいと思ったのである。
「先生、いま、何処に居とってん?」
光子の明るい弾んだ声が電話線をきんきん伝って来た。元町の喫茶店だと答えると、
「いややわ。そんな近くですか。そんなら、うち直ぐそちらに出向きますわ。きよ子さんとは今夜会うことになっています。先生、聞かはったら驚かはりますわ、きっと。――相当なもんでっせ、あのひと」
その相当なものというのを、これから行って説明すると言うように、明るい笑い声がぷつんと消えたと思うと、それを合図に電話も切れていた。もういい加減なことでは、私は驚かないだろうと思った。ここ半年程、司きよ子の無軌道な行状や得体の知れぬ考え方に翻弄され尽した形で、思い返してみると、青い光芒をひらめかして失踪する一個の星を遥か背後の方から追いかけているようなもので、今やそれがどんな方角に新しく走り出そうと、私の眼は青い光の尾の行方を見遣るばかりで、心はたいして意外にも思うことはないだろうと思われた。それに司きよ子ばかりではなく、彼女をとかくげて物扱いにする当の江戸光子にしても、去年まで神戸のオミツで通る三宮のぐれん隊のいっぱしの姉御であったところを見れば、これとて、決してまともな娘とは義理にも言えた筈ではないのである。

十分程すると、服装だけはぱりっとしているが、まだ何処かにぐれん隊時代の名残りを残している男の子のような荒い歩き方で、江戸光子の化粧ののりそうもない色の黒い、鉄火な気性むき出しの顔が現われた。
「お待たせしました」
電話の声とは別人のようにしおらしく言って、ボックスの向い合った席に腰を降ろし、神妙に伏せた顔から、上眼使いに私を見ると、直ぐ視線を他処に反らして、口許に微かな含み笑いを漂わせている。
私はこの前もそうであったが、光子と向い合うと、彼女の痩せぎすな姿態から少女のような生硬な、それだけにまた汚れというものが傍に寄りつけない清潔な感じを受ける。白いワンピースから細い腕を突出したところや、女としては珍らしく広い額を、匿すどころか髪を上に撫であげて一層広く見せているところなど、海水浴場のある海岸町でぶつかる女学生のようないかにもこざっぱりした感じで、シャワーの前などに立たせて水滴を浴びさせたら、この子の、引き締った陽焼けでない黒い肌は忽ち息づいて来て、本来の一番の美しさを発揮するのではないかと思われる。爪も赤く染め、耳にも真物らしい真珠などぶら下げているが、洒落っ気がどこか板についていない感じで、それがまた光子のいかにも光子らしい鉄火な一種新鮮な魅力を作っていた。
「先生、あれからきよ子さんに会わはりました?」
「会っていない。大体居所が解らないよ。だから君らの間でどんな風に問題が片付いたか訊いておこうと思って――」
「怖いなあ」
ちょっと肩をすくめ、これが彼女の一番の身上である二つの少し吊上っているが、ぱちりとした切長の眼をどこまでも細めて笑った。
「先生」
彼女は私を先生と呼ぶが、それは十二年前の名残りである。私は中学を卒業して、高等学校の受験準備時代、期間は僅か一年ではあるが、神戸の下町の小学校の代用教員を勤めたことがあった。その時の担当の二年の二組の七十人ほどの児童の中に、江戸光子も、それから現在彼女と悶着を起している司きよ子も混じって居たのである。江戸光子とは今年の五月、司きよ子の事件で彼女をホールに訪ねるまで、その間の十二年間というもの一度も会っていなかった。彼女はその時、既に顔容も名前もすっかり忘れてしまっていたらしい私を、昔通り先生と呼んでしまったので、それ以後、他の呼び方で呼ぶことが出来ないもののようであった。
よくしたもので、私もまた、耳慣れない退化器官的なこの呼称がたいしてくすぐったくも感じられず、彼女と話していると、いつの間にか向こうの話を受取る時の仕種や相槌の打ち方に、ともすれば生徒に対する先生のような分別臭いものが出て来て、そうした思ったこともない野暮ったいポーズを、私は私で時に自分の中に発見して多少不思議な気がしないでもなかった。
(後略)

『井上靖全集 第二巻』新潮社 152〜154P

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