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兵庫ゆかりの文学

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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

戦国無頼

概要

竹生島?



明智光秀の封地である丹波は、天正四年の夏、明智軍の主力が山陰地方への作戦のために引き揚げて以来、土豪が各地に蜂起し、文字通り蜂の巣をつついたような、収拾のつかぬ混乱状態に陥っていた。
併し、その混乱も時と共に次第におさまって、波多野秀治、宗長兄弟の勢力のもとに、徐々に統一される方向に進み、天正五年の春には、波多野兄弟が、領主明智光秀に代って、威を丹波一国に振うに至った。そして波多野氏は、八上城と氷山城を本拠として、他に四十余の城、三十余の砦を設けて、明智軍の反撃に備えながら、丹後、但馬、摂津方面にまで、その勢力を伸ばした。かかる丹波の形勢は、ようやく領主明智光秀にとって棄ておけないものになった。
明智光秀が国内掃蕩の軍を起したのは、天正五年の十月のことである。五千の軍勢が坂本を進発し、老ノ坂峠を越えて、丹波へ向かった。そしてこの明智軍の丹波掃蕩は、翌六年、翌々七年へかけて、三年越しに行われるに至ったのである。
加乃が思いがけず佐々疾風之介の噂を耳にしたのは、天正六年の春で、丹波へ進発した軍勢の一部が、初めて交替のために坂本へ帰って来た時であった。
その日、研師林一藤太の家に客人があった。平生一藤太と特別に昵懇にしている中年の武士で、一藤太は丹波の合戦から半年ぶりで帰って来たその武士を、戦線の労をねぎらう意味で自宅に招いたのであった。その時加乃も、彼をもてなすために、その酒席に顔を出していた。
その武士の語るところによると、丹波での転戦は、全く予期していないほど難渋を極めたもので、大合戦はないが、敵の小部隊は天険を利用して、その行動は神出鬼没、到るところで明智軍を悩ましているということであった。それでも明智軍は亀山城、篠山城、宇津城を陥れ、目下八上城、園部城を攻囲中であるという。
「丹波の山猿とあなどったらとんだ間違いで、敵の波多野は、いい家臣をたくさん持っている。八上城には疾風と書いた旗差し物を持っている武士がいましての」と、その武士は一藤太に言った。
「疾風!」
傍でそれを聞いていた加乃は、思わず口を差しはさんだ。
「そう。佐々疾風之介という名前の武士でな。その合戦ぶりは水際立っている。その腕前と豪胆さにはちょっと及ぶ者がなかろう。敵ながら惚れ惚れするほどみごとなものだ」
加乃はその言葉を聞いていて、自分の耳を疑う気持だった。佐々疾風之介と言うからには、自分が夢にも忘れることのできない、あの疾風に違いないと思う。
「お若いおさむらいでございますか」
「三十になろうか。あるいはもう少し若いかもしれぬ」
加乃は、もうそのままそこに坐っていることはできなかった。
日吉神社の舟祭りの晩見かけてから、既に一年半以上の日が経っている。あの時、十郎太に邪魔されて一言も言葉を交わさないで別れてしまってから、疾風之介に対する思慕の情は募るばかりである。
加乃は十郎太に対して、あの事件以来、烈しい憎しみを感じていた。併しそんなことにはお構いなく、十郎太は相変らず月に一回ぐらいの割で、佐和山から坂本へやって来た。そして一藤太の家を訪ね、一目でも加乃に会うと、それだけで彼は満足して帰って行った。

加乃は席を立つと、縁側に出て、庭下駄をつっかけて庭へ降りた。三本の桜は満開である。併し夜気は少し冷たく、まだどこかに冬の名残りが残っている感じである。
加乃は狭い庭の桜樹の下に立っていると、小谷の城の桜を思い出した。あの小谷の城中の桜が満開の時は、陽気はもっと暖く、どこか遠くから絶えず、華やいだ酒宴のさんざめきが聞えていたと思う。今はいたずらに夜気は冷たく、桜の開き方にも、あの頃の朗々としたものはなくなっている。湖の東と西で、多少気候は変るが、やはり小谷の落城を境にして、時代も、人間も、そして天地のあらゆるものが変ってしまったようである。
疾風之介が丹波の山中で波多野の家臣として働いているということは、加乃にとって大きい事件であった。どうしても彼女が会わなければならぬ男性が、小谷の落城から五年の歳月を経過して、今初めて、その所在を明らかにしたのである。
併し、疾風之介が明智家の血を引くと思えばこそ、いつか彼がこの城下へ現われることを予想して、加乃は深溝からこの坂本へ移って来たのであった。それが全く予想を裏切って、明智軍を敵に廻して闘っている丹波の波多野の家臣になっていようとは、考えてみれば随分皮肉なことであった。
加乃は、疾風と書いた旗差し物を差して闘っているという、疾風之介の姿を胸に描いてみた。併し先刻の武士が言った水際立った武者ぶりだというその武者ぶりは、はっきりと想像することができなかった。舟祭りの日、舟の舳先のほうに坐ってじっと腕組みして、視線をこちらに向けていた近寄りがたいような、どこかに厳しさのある疾風之介とそれはどうしても加乃の瞳の中で一つにはならなかった。どちらかの疾風之介が偽りであるような気がした。
(後略)

『井上靖全集 第八巻』新潮社 571?573P

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