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兵庫ゆかりの文学

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井上 靖

いのうえ やすし井上 靖

  • 明治40~平成3(1907~1991)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:北海道

作品名

楕円形の月

概要

(前略)
「こんな川は東京にはないな。酔っ払った時、眺めるように出来ているんだな」
阪神電車は武庫川の鉄橋の上を音を立てて走っていた。
津坂は社へ入ってから大阪支社から他へ転じたことがなく、住んでいる家も芦屋の親譲りの家が戦災から逃れていたので、ここ二十年近く、朝にタにこの武庫川の鉄橋を、社への通勤の往復に渡っているわけだったが、江藤の方は、入社当時の大阪時代の若い時の遠い記憶が、この武庫川の夜の眺めと結び付いているらしく、それがたまに大阪へ来ると、眼に鮮かに濡れて映るらしかった。
「実に綺麗だな」
江藤は言った。実際綺麗だった。月光が川の面を白く照らし、小さい川波がきらきらと光っている。
「昼は汚いがね」
そう言って、津坂はその時、自分の言葉が少し縺れているのに気が付いた。そして鉄橋を渡り終えた時、車体の動揺で、躰の上半身が窓の方へ押しやられ、吊皮を握っている手に思わず力が入ったが、それが妙に頼りない感じで躰が大きく振られた。変に思って、指に力を込めてみたが、セルロイドの白い輪を握っている指先に、感覚がなかった。
津坂は左手で同じように、ぶらぶら揺れ動いている白い輪を捉えた。そしてそれを握りしめてみたが、この場合も、指先にはいっこうに物を把握しているという感じがなかった。気が付いて舌と唇を噛んでみた。交互に力を入れて噛みしめる動作を繰り返してみたが、やはり感覚は喪失していた。
中毒(あた)ったかなと、津坂は思った。中毒ったとすれば、先刻の、江藤が何となく箸で除けていた余りお眼にかかったことのない得体の知れぬものが悪かったような気がした。

今まで、毎年冬になれば、宴会と言えば大抵河豚だった。極く少し唇が痺れるようなことなら毎年何回もあり、寧ろそうした唇の状態こそ、河豚という食物の特殊な魅力であったが、今度の場合はいつもと少し違うようだった。
「今夜泊まるという住吉の家は姉さんの家なんだね。広いのかい」
津坂は何か喋ってみないと居られぬ気持に駆られて、そんなことをわざわざ口にしてみた。やはり言葉はどこか一箇所縺れていた。
「広いのかい、広いのかい」
続けて同じことを言ってみた。ロの発音が可笑しい。ロと正確に発音できないで、舌足らずにオと発音される。
「今時の家としてはまあ広い方だろうね。二階が八畳と六畳と、それに広い板敷がある」

そういう言葉の中で、江藤の方は「広い」も「だろうね」も、はっきりとロと発音している。津坂はうんざりした。やっぱり、あのぶよぶよした茶褐色のものが曲物だったと思う。
津坂は、暫く、窓硝子に映る扁平な自分の顔を見詰めながら、手指を握ってみたり、唇を噛んでみたり、時々、小さく、ロ、ロ、ロと、ロの発音を繰り返したりした。
そして、そうした小さい仕種をやめると、後はじたばたしても中毒ったものは中毒ったのだと思って、静かにしていた。
次が阪神芦屋という時、
「この次降りるよ」
と、津坂は縺れた口調で言った。
「香櫨園じゃあないのか」
と江藤は言った。
「香櫨園はもう過ぎたよ」
津坂は言ったが、やはりロがオと響いた。
「香櫨園、香櫨園、香櫨園」
と津坂は言ってみた。さすがに、独り言のように同じ単語を口にしている津坂の様子を変に思ったのか、江藤が躰の向きを変えて、津坂の方を見た。
その時、津坂は、
「じゃあ」
と、続けて喋ると気取られそうに思ったので、江藤の眼を見ただけで、出入口の扉の方へ進んだ。その時電車が停まって扉が開いたので、彼はそのままホームの固い石を踏んだ。そして窓硝子越しに、江藤の方に手を挙げると、そのまま月光でいやに白く見えているホームを改札口の方へ人混みの間に挟まって歩いていった。
(後略)

『井上靖全集 第三巻』新潮社 237?238P

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