年 | 年齢 | 事項 |
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1883 | 0 | 宮城県石巻町に父直温(なおはる)、母銀の次男として生まれる。兄直行は満二年8ヵ月で夭折。 |
1885 | 2 | 父母と共に東京市麹町区内幸町の祖父母の家に転居し、祖父母の許で育てられる。 |
1889 | 6 | 学習院初等科に入学。 |
1895 | 12 | 母銀死去。父 高橋浩(たかはしこう)と再婚。 |
1900 | 17 | 7月、書生末永馨に伴われ、角筈の内村鑑三宅でひらかれていた夏期講談会にはじめて出席。このあと7年間鑑三の許でキリスト教の教えに接する。 |
1901 | 18 | 足尾銅山鉱毒事件で、現地視察を計画するが、父直温(なおはる)と意見が衝突し、挫折。父との関係が悪化するはじまりの一つになる。 |
1902 | 19 | 中等科落第。武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、木下利玄(きのしたりげん)、正親町公和(おおぎまちきんかず)等と同級になる。「人身発達の理想的想象」を書く。現存する未定稿の最初の文語体所感。 |
1904 | 21 | 5月5日「菜の花」を書く。この頃より作家を志す。 |
1906 | 23 | 祖父直道死去。享年八十。学習院高等科卒業。武課のみ甲、他はすべて乙。東京帝国大学文科大学英文科入学。 |
1907 | 24 | 武者小路実篤、木下利玄、正親町公和と文学読合せ会「十四日会」の第一回を三河台の自宅でひらく。女中「C」と結婚を約す。反対する父、祖母、義母らと争う。父との対立深まる。「C」暇を出されて、帰る。 |
1908 | 25 | 夏、内村鑑三の許を去る。 |
1910 | 27 | 四月、「望野」の同人武者小路実篤、木下利玄、正親町公和、「麦」の同人里見とん、児島喜久雄、園池公致、田中雨村、日下稔、「桃園」の同人柳宗悦、郡虎彦(萱野二十一)、その他、有島武郎、有島壬生馬、三浦直介、会計係、細川護立のメンバーで洛陽堂より同人雑誌『白樺』創刊。
十一月二十日、木下杢太郎、北原白秋らの「パンの会」に誘われるが、不参加。 |
1911 | 28 | 二月「イズク川」、四月「濁つた頭」『白樺』に発表。
12月22日、「メーゾン鴻の巣」で吉井勇、谷崎潤一郎に会う。
「網走まで」(四月)「剃刀」(六月)を『白樺』に発表する。東京帝国大学退学。 |
1912 | 29 | 9月、『大津順吉』を「中央公論」に発表。初めての原稿料百円を得る。父と対立し、11月10日、尾道に着き、自活。(7月30日、明治天皇崩御、乃木大将殉死。
直哉の日記に感想あり。)『時任謙作』(『暗夜行路』の前身)執筆開始。 |
1913 | 30 | 『清兵衛と瓢箪』を「読売新聞」に発表。
四月、尾道より帰京。『留女』(処女短編集)漱石の賞讃あり。八月夜、山手線にはねられ重傷を負う。十月十八日、後養生のため城崎温泉に行く。漱石より武者小路を介して『東京朝日新聞』連載小説の執筆を勧められる。 |
1914 | 31 | 漱石を訪ね『東京朝日新聞』連載小説執筆の辞退。7月、大山(鳥取)の宿坊「蓮浄院」に十日間滞在。9月、京都に移る。12月20日、勘解由小路資承(かでのこうじすけこと)の娘康子(さだこ)と結婚。康子は実篤の従妹、26歳。父直温、賛成せず。第一次世界大戦勃発。 |
1915 | 32 | 父の家より離籍。五月、赤城山大洞に行き、山小屋を建てて住む。9月、柳宗悦に勧められて我孫子弁天山に移る。 |
1916 | 33 | バーナード・リーチ、柳邸に仕事場をもつ。武者小路実篤移住。我孫子、白樺村の観あり。 |
1917 | 34 | 8月、父直温と和解。10月、「和解」(『黒潮』)発表。次女留女子誕生。 |
1918 | 35 | 第一次世界大戦終わる。武者小路実篤、「新しき村」を創設。宮崎県児湯郡木城町。 |
1920 | 37 | 『小僧の神様』(白樺)『真鶴』(「中央公論」)発表。瀧井孝作、『改造』記者として直哉訪問。三女寿々子誕生。 |
1921 | 38 | 1月、「暗夜行路」前編(『改造』)連載はじまる。8月、祖母留女、死去。 |
1922 | 39 | 1月1日「自分の生活を完全に創作本位のものに煮つめる」(日記の記事)5月、箱根からの帰り、鵠沼の岸田劉生訪問。七月、芥川龍之介来宅。四女万亀子誕生。 |
1923 | 40 | 3月、我孫子を去り、京都市上京区粟田口三条坊に移る。網野菊、来訪。9月1日、関東大震災。これを機に『白樺』廃刊。10月、京都、山科に移る。有島武郎自殺。 |
1925 | 42 | 九里四郎の勧めにより、奈良市幸町に移る。次男直吉誕生。 |
1929 | 46 | 2月、父直温死去。享年77。三月、小林秀雄奈良を去る。4月、奈良市上高畑に自ら設計した家を新築、転居。10月、五女田鶴子(たずこ)誕生。12月、尾崎一雄奈良に来て住む。満鉄の招きに応じ、里美とんと共に満州・北支を旅行する。岸田劉生死去。小林秀雄「志賀直哉」発表(『思想』) |
1932 | 49 | 東大寺惣持院住職となる上司海雲と加納和弘の家で会う。以後、親交続く。六女貴美子誕生。 |
1937 | 54 | 1月、全集刊行(改造社)が企画され、9年間放置されたままであった「暗夜行路」の仕上げに取りかかる。3月1日、ついに「暗夜行路」脱稿。大正10年の連載開始から17年目に完結。四月、「青臭帖」(『中央公論』)発表。10月、康子、留女子、田鶴子、貴美子東京に移る。直哉、寿々子、万亀子、学校の都合あり奈良に残る。7月、日華事変勃発。 |
1938 | 55 | 4月、奈良を引き上げ、東京市淀橋区諏訪町に転居。 |
1945 | 62 | 8月15日、日本無条件降伏。「三年会」(外相、重光葵発意)開催。直哉の他、武者小路実篤、山本有三、安部能成、和辻哲郎、谷川徹三、田中耕太郎などが出席。九月、「同心会」(「三年会」の延長)結成。新たに梅原龍三郎、大内兵衛、石橋湛山、柳宗悦、里見とん、廣津和郎、鈴木大拙等を会員に加える。十月、同心会を中心に、『世界』(岩波書店)発行を決定。同誌創作欄の企画担当。
11月、「灰色の月」を書く。「特攻隊再教育」を朝日新聞に投稿。16日、同紙掲載。 |
1947 | 64 | 日本ペンクラブ会長就任(一年のみ)。 |
1948 | 65 | 1月、康子、貴美子とともに熱海市稲村大洞台(おおほらだい)に移る。太宰治自殺。7月、実篤が結成した「生成会」の『心』創刊に参加。志賀直哉、梅原龍三郎、柳宗悦、里見_、高村光太郎、永井荷風、柳田國男、津田左右吉、中谷宇吉郎などが名を連ねる。 |
1958 | 75 | 記録映画『志賀直哉』。羽仁進監督、岩波書店企画。 |
1959 | 76 | 6月、美術図鑑『樹下美人』(河出書房新社)刊行。秋、『暗夜行路』映画化。豊田四郎監督(東宝)。 |
1971 | 88 | 10月21日、関東中央病院にて死去。26日、青山葬斎場で無宗教による葬儀。 |
1924 | 41 | 1月、「雨蛙」を『中央公論』に発表。夏、小林秀雄、直哉訪問。 |
1926 | 43 | 6月、前々年より準備していた美術図録『座右宝(ざうほう)』刊行。網野菊、武者小路実篤、奈良に来て住む。 |
1927 | 44 | 4月、芥川龍之介、直哉の作品を絶賛。(「文藝的な餘りに文藝的な」(『改造』)武者小路実篤、奈良を去る(2月)芥川龍之介自殺。(7月) |
1928 | 45 | 5月、網野菊、奈良を去る。小林秀雄、奈良に来て住む。7月、「創作余談」発表(「改造」)10月、「豊年虫」を書く。 |
1930 | 47 | 2月、瀧井孝作奈良を去る。7月、尾崎一雄奈良を去る。内村鑑三死去。享年70。 |
1931 | 48 | 11月はじめ、手紙の交換のあった小林多喜二、直哉を訪問し、一泊して帰る。義母、奈良に来て中筋町に住む。 |
1933 | 50 | 2月、小林多喜二、警察の拷問を受け、死亡。多喜二の母に悔やみの手紙を書く。6月、「手帖から」(『経済往来』)を書く。8月、「萬暦赤繪」を書く。 |
1934 | 51 | 4月、「日記帖」(「菰野」と改題)を『改造』に発表。9月21日、室戸台風が関西を襲う。10月、「颱風」を書く。 |
1935 | 52 | 11月、瀧井孝作、24日より28日まで毎日来訪、後に『志賀直哉対談日誌』を書く。3月、義母死去。享年64。 |
1936 | 53 | 日本民藝館開館、柳宗悦、館長となる。直吉、東京に移る。学習院に転入。(3月) |
1939 | 56 | 武者小路実篤、東の「新しき村」開設。埼玉県入間郡毛呂山町。 |
1940 | 57 | 5月、東京市世田谷区新町に転居。 |
1941 | 58 | 1月、「内村鑑三先生の憶い出」を書く。「早春の旅」(『文芸春秋』)に連載。7月、日本藝術院会員。12月8日、日本対米英開戦。 |
1943 | 60 | 11月、豪華一冊本『暗夜行路』(座右宝刊行会)出る。 |
1944 | 61 | 大正文学研究会編『志賀直哉研究』(河出書房)刊行される。執筆者吉田精一、小林英夫、稲垣達郎、赤木俊、伊藤整、中野重治他。 |
1946 | 63 | 1月、「灰色の月」、『世界』創刊号に発表。奈良に赴き、6月6日から7月20日まで東大寺観音院の上司海雲宅に滞在し、暮らす。 |
1949 | 66 | 7月、「わが生活信條」を書く。11月3日、文化勲章受賞。 |
1950 | 67 | 9月、「美術の鑑賞について」を書く。 |
1951 | 68 | 二月、『山鳩』(中央公論社)刊行。武者小路実篤、文化勲章受賞。 |
1952 | 69 | 5月、梅原龍三郎、柳宗悦、浜田庄司らとバンコック経由でヨーロッパ旅行に出る。訪問地イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリス。ロンドンで病。予定を変更し、8月12日帰国。 |
1953 | 70 | 古稀を祝う。 |
1954 | 71 | 11月、ソ蓮作家同盟より第二回全ソ作家大会に廣津和郎、徳永直とともに招待を受けるが辞退。 |
1955 | 72 | 1月、祖父直道の五十回忌を一族で営む。五月、東京都渋谷区常盤松に家を新築して移る。谷口吉郎設計。 |
1956 | 73 | 1月、「白い線」を書く。 |
1960 | 77 | 12月、草稿「ナイルの水の一滴」発表。『志賀直哉集』扉(講談社) |
1961 | 78 | 柳宗悦、長與善郎、若山為三死去。 |
1963 | 80 | 8月、「盲亀浮木」(『新潮』七百號記念號)発表。 |
1964 | 81 | 廣津和郎、網野菊、尾崎一雄らと自宅で金婚を祝う。 |
1965 | 82 | 7月、谷崎潤一郎死去。湯河原の家に弔問。 |
1967 | 84 | 4月、東京都知事選挙において美濃部亮吉推薦の談話。 |
1968 | 85 | 9月、ソ連軍チェコ侵入を憤る文章を書く。発表せず。廣津和郎死去。熱海の家に弔問。 |
1969 | 86 | 3月、『枇杷の花』(新潮社)刊行。 |
1973 | | 青山墓地の志賀一族の墓所に葬られる。 |