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兵庫ゆかりの作家

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志賀 直哉写真

しが なおや志賀 直哉

  • 明治16~昭和46
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:宮城県石巻町

PROFILE

兵庫県が舞台となった作品に名作『城崎にて』『暗夜行路』がある。志賀直哉は明治16年(1883)宮城県石巻に生まれる。士族の家柄で、幼少期に一家は東京の旧相馬藩邸内に暮らす祖父母のもとに移る。直哉は夭折した兄に代わる跡取りとして育てられる。学習院初等科入学。中等科12歳のとき母、銀が死去し、父は高橋浩と再婚する。かれは後年このときのことを振り返って「母の死と新しい母」を書いている。足尾銅山鉱毒事件をめぐって、鉱山側の父と対立する。この頃、武者小路実篤らと知り合い作家を志望する。東京帝国大学英文科入学。明治43年武者小路実篤や有島武郎らとともに「白樺」創刊。自己の主張と人道主義をとなえる白樺派の作家のなかで、直観的観察に基づく自らの分野を新しく文壇にひらき、この中心的作家として活躍することになるが、自身の文学や自家の「女中」Cとの結婚をめぐって父子の対立が決定的となり、大正元年、自ら父の家を出て尾道に独り住む。このとき、京都、奈良の古美術に触れ、精神の安らぎを得る。大正三年、千葉県我孫子から一家は京都に移り住む。武者小路実篤の叔父の娘康子と結婚。この関西生活の中で自身が渉猟した東洋の古美術を写真集にした『座右宝』(大正15年)を刊行する。唯一の長篇『暗夜行路』を自身が設計した奈良の自邸で書き上げて、東京に戻る。清新で個性的な短編を相ついで発表し、大正6年(1917)父と和解したあと、名作『城崎にて』『和解』『赤西蠣太』などを次々と発表する。作風は真直ぐに観る自身の内面や直観に基づく対象の克明な描写。その眼差しは深く生命の意味を見つめ、今なお作家・知識人に大きな影響を与えつづけている。戦後は、晩年に入り自らの視点をさらに深める。主な作品として「白い線」「私の空想美術館」「ナイルの水の一滴」など。昭和46年(1971)、88歳で他界。遺書により、記念碑の類いを建てることを禁止。葬儀は無宗教で行なわれた。『城崎にて』は大正6年(1917)に同人誌『白樺』に発表された短編。大正2 年友人らと夕涼みがてらに東京芝浦の埋立地の海岸に散歩に出かける。その帰り路、山手線の線路のわきを歩いていて後ろからやってきた電車にはねられ、重傷を負う。2週間の入院生活のあと、医者が脊椎カリエスの発病に用心するようにいわれ、湯治のため城崎温泉を訪れる。城崎滞在中、宿屋で出会う小さな生き物の死に自らを重ね、生と死の意味を徹底的に観察し描写したこの作品は、その文体のみごとさにおいて、かれの代表作の一つになっている。唯一の長篇『暗夜行路』のなかで、主人公の謙作は大山で究極の平安を獲得する。その旅程で城崎の町が、苦悩から救いへと向かう分岐点、再生への出発点に位置づけられている。

《 略年譜 》

年齢事項
18830宮城県石巻町に父直温(なおはる)、母銀の次男として生まれる。兄直行は満二年8ヵ月で夭折。
18852父母と共に東京市麹町区内幸町の祖父母の家に転居し、祖父母の許で育てられる。
18896学習院初等科に入学。
189512母銀死去。父 高橋浩(たかはしこう)と再婚。
1900177月、書生末永馨に伴われ、角筈の内村鑑三宅でひらかれていた夏期講談会にはじめて出席。このあと7年間鑑三の許でキリスト教の教えに接する。
190118足尾銅山鉱毒事件で、現地視察を計画するが、父直温(なおはる)と意見が衝突し、挫折。父との関係が悪化するはじまりの一つになる。 
190219中等科落第。武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、木下利玄(きのしたりげん)、正親町公和(おおぎまちきんかず)等と同級になる。「人身発達の理想的想象」を書く。現存する未定稿の最初の文語体所感。
1904215月5日「菜の花」を書く。この頃より作家を志す。
190623祖父直道死去。享年八十。学習院高等科卒業。武課のみ甲、他はすべて乙。東京帝国大学文科大学英文科入学。
190724武者小路実篤、木下利玄、正親町公和と文学読合せ会「十四日会」の第一回を三河台の自宅でひらく。女中「C」と結婚を約す。反対する父、祖母、義母らと争う。父との対立深まる。「C」暇を出されて、帰る。
190825夏、内村鑑三の許を去る。
191027四月、「望野」の同人武者小路実篤、木下利玄、正親町公和、「麦」の同人里見とん、児島喜久雄、園池公致、田中雨村、日下稔、「桃園」の同人柳宗悦、郡虎彦(萱野二十一)、その他、有島武郎、有島壬生馬、三浦直介、会計係、細川護立のメンバーで洛陽堂より同人雑誌『白樺』創刊。 十一月二十日、木下杢太郎、北原白秋らの「パンの会」に誘われるが、不参加。
191128二月「イズク川」、四月「濁つた頭」『白樺』に発表。 12月22日、「メーゾン鴻の巣」で吉井勇、谷崎潤一郎に会う。 「網走まで」(四月)「剃刀」(六月)を『白樺』に発表する。東京帝国大学退学。
1912299月、『大津順吉』を「中央公論」に発表。初めての原稿料百円を得る。父と対立し、11月10日、尾道に着き、自活。(7月30日、明治天皇崩御、乃木大将殉死。 直哉の日記に感想あり。)『時任謙作』(『暗夜行路』の前身)執筆開始。
191330『清兵衛と瓢箪』を「読売新聞」に発表。 四月、尾道より帰京。『留女』(処女短編集)漱石の賞讃あり。八月夜、山手線にはねられ重傷を負う。十月十八日、後養生のため城崎温泉に行く。漱石より武者小路を介して『東京朝日新聞』連載小説の執筆を勧められる。
191431漱石を訪ね『東京朝日新聞』連載小説執筆の辞退。7月、大山(鳥取)の宿坊「蓮浄院」に十日間滞在。9月、京都に移る。12月20日、勘解由小路資承(かでのこうじすけこと)の娘康子(さだこ)と結婚。康子は実篤の従妹、26歳。父直温、賛成せず。第一次世界大戦勃発。
191532父の家より離籍。五月、赤城山大洞に行き、山小屋を建てて住む。9月、柳宗悦に勧められて我孫子弁天山に移る。
191633バーナード・リーチ、柳邸に仕事場をもつ。武者小路実篤移住。我孫子、白樺村の観あり。
1917348月、父直温と和解。10月、「和解」(『黒潮』)発表。次女留女子誕生。
191835第一次世界大戦終わる。武者小路実篤、「新しき村」を創設。宮崎県児湯郡木城町。
192037『小僧の神様』(白樺)『真鶴』(「中央公論」)発表。瀧井孝作、『改造』記者として直哉訪問。三女寿々子誕生。
1921381月、「暗夜行路」前編(『改造』)連載はじまる。8月、祖母留女、死去。
1922391月1日「自分の生活を完全に創作本位のものに煮つめる」(日記の記事)5月、箱根からの帰り、鵠沼の岸田劉生訪問。七月、芥川龍之介来宅。四女万亀子誕生。
1923403月、我孫子を去り、京都市上京区粟田口三条坊に移る。網野菊、来訪。9月1日、関東大震災。これを機に『白樺』廃刊。10月、京都、山科に移る。有島武郎自殺。
192542九里四郎の勧めにより、奈良市幸町に移る。次男直吉誕生。
1929462月、父直温死去。享年77。三月、小林秀雄奈良を去る。4月、奈良市上高畑に自ら設計した家を新築、転居。10月、五女田鶴子(たずこ)誕生。12月、尾崎一雄奈良に来て住む。満鉄の招きに応じ、里美とんと共に満州・北支を旅行する。岸田劉生死去。小林秀雄「志賀直哉」発表(『思想』)
193249東大寺惣持院住職となる上司海雲と加納和弘の家で会う。以後、親交続く。六女貴美子誕生。
1937541月、全集刊行(改造社)が企画され、9年間放置されたままであった「暗夜行路」の仕上げに取りかかる。3月1日、ついに「暗夜行路」脱稿。大正10年の連載開始から17年目に完結。四月、「青臭帖」(『中央公論』)発表。10月、康子、留女子、田鶴子、貴美子東京に移る。直哉、寿々子、万亀子、学校の都合あり奈良に残る。7月、日華事変勃発。
1938554月、奈良を引き上げ、東京市淀橋区諏訪町に転居。
1945628月15日、日本無条件降伏。「三年会」(外相、重光葵発意)開催。直哉の他、武者小路実篤、山本有三、安部能成、和辻哲郎、谷川徹三、田中耕太郎などが出席。九月、「同心会」(「三年会」の延長)結成。新たに梅原龍三郎、大内兵衛、石橋湛山、柳宗悦、里見とん、廣津和郎、鈴木大拙等を会員に加える。十月、同心会を中心に、『世界』(岩波書店)発行を決定。同誌創作欄の企画担当。 11月、「灰色の月」を書く。「特攻隊再教育」を朝日新聞に投稿。16日、同紙掲載。
194764日本ペンクラブ会長就任(一年のみ)。
1948651月、康子、貴美子とともに熱海市稲村大洞台(おおほらだい)に移る。太宰治自殺。7月、実篤が結成した「生成会」の『心』創刊に参加。志賀直哉、梅原龍三郎、柳宗悦、里見_、高村光太郎、永井荷風、柳田國男、津田左右吉、中谷宇吉郎などが名を連ねる。
195875記録映画『志賀直哉』。羽仁進監督、岩波書店企画。
1959766月、美術図鑑『樹下美人』(河出書房新社)刊行。秋、『暗夜行路』映画化。豊田四郎監督(東宝)。
19718810月21日、関東中央病院にて死去。26日、青山葬斎場で無宗教による葬儀。
1924411月、「雨蛙」を『中央公論』に発表。夏、小林秀雄、直哉訪問。
1926436月、前々年より準備していた美術図録『座右宝(ざうほう)』刊行。網野菊、武者小路実篤、奈良に来て住む。
1927444月、芥川龍之介、直哉の作品を絶賛。(「文藝的な餘りに文藝的な」(『改造』)武者小路実篤、奈良を去る(2月)芥川龍之介自殺。(7月)
1928455月、網野菊、奈良を去る。小林秀雄、奈良に来て住む。7月、「創作余談」発表(「改造」)10月、「豊年虫」を書く。
1930472月、瀧井孝作奈良を去る。7月、尾崎一雄奈良を去る。内村鑑三死去。享年70。
19314811月はじめ、手紙の交換のあった小林多喜二、直哉を訪問し、一泊して帰る。義母、奈良に来て中筋町に住む。
1933502月、小林多喜二、警察の拷問を受け、死亡。多喜二の母に悔やみの手紙を書く。6月、「手帖から」(『経済往来』)を書く。8月、「萬暦赤繪」を書く。
1934514月、「日記帖」(「菰野」と改題)を『改造』に発表。9月21日、室戸台風が関西を襲う。10月、「颱風」を書く。
19355211月、瀧井孝作、24日より28日まで毎日来訪、後に『志賀直哉対談日誌』を書く。3月、義母死去。享年64。
193653日本民藝館開館、柳宗悦、館長となる。直吉、東京に移る。学習院に転入。(3月)
193956武者小路実篤、東の「新しき村」開設。埼玉県入間郡毛呂山町。
1940575月、東京市世田谷区新町に転居。
1941581月、「内村鑑三先生の憶い出」を書く。「早春の旅」(『文芸春秋』)に連載。7月、日本藝術院会員。12月8日、日本対米英開戦。
19436011月、豪華一冊本『暗夜行路』(座右宝刊行会)出る。
194461大正文学研究会編『志賀直哉研究』(河出書房)刊行される。執筆者吉田精一、小林英夫、稲垣達郎、赤木俊、伊藤整、中野重治他。
1946631月、「灰色の月」、『世界』創刊号に発表。奈良に赴き、6月6日から7月20日まで東大寺観音院の上司海雲宅に滞在し、暮らす。
1949667月、「わが生活信條」を書く。11月3日、文化勲章受賞。
1950679月、「美術の鑑賞について」を書く。
195168二月、『山鳩』(中央公論社)刊行。武者小路実篤、文化勲章受賞。
1952695月、梅原龍三郎、柳宗悦、浜田庄司らとバンコック経由でヨーロッパ旅行に出る。訪問地イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリス。ロンドンで病。予定を変更し、8月12日帰国。
195370古稀を祝う。
19547111月、ソ蓮作家同盟より第二回全ソ作家大会に廣津和郎、徳永直とともに招待を受けるが辞退。
1955721月、祖父直道の五十回忌を一族で営む。五月、東京都渋谷区常盤松に家を新築して移る。谷口吉郎設計。
1956731月、「白い線」を書く。
19607712月、草稿「ナイルの水の一滴」発表。『志賀直哉集』扉(講談社)
196178柳宗悦、長與善郎、若山為三死去。
1963808月、「盲亀浮木」(『新潮』七百號記念號)発表。
196481廣津和郎、網野菊、尾崎一雄らと自宅で金婚を祝う。
1965827月、谷崎潤一郎死去。湯河原の家に弔問。
1967844月、東京都知事選挙において美濃部亮吉推薦の談話。
1968859月、ソ連軍チェコ侵入を憤る文章を書く。発表せず。廣津和郎死去。熱海の家に弔問。
1969863月、『枇杷の花』(新潮社)刊行。
1973青山墓地の志賀一族の墓所に葬られる。
逝去地
関東中央病院(東京都世田谷区)
兵庫県との関係
来訪 舞台 『城の崎にて』『暗夜行路』
関連リンク
『日本近代文学館』(東京都目黒区)志賀直哉宛書簡類等 所蔵

代表作品

作品名刊行年版元備考
菜の花と小娘1904金の船
イヅク川1911白樺
正義派1912朱欒
クローディアスの日記1912白樺
范の犯罪1913白樺
出来事1913白樺
児を盗む話1914白樺
和解1917雑誌「黒潮」
城の崎にて1917同人誌「白樺」
赤西蛎太1918新潮社
或る朝1918春陽堂
大津順吉1918新潮社
夜の光1918新潮社
網走まで1919新潮社白樺の森
真鶴1920中央公論
焚火1921春陽堂
小僧の神様1921春陽堂
暗夜行路 前篇1922新潮社
荒絹1922春陽堂
雨蛙1925改造社
座右宝1926座右宝刊行会
山科の記憶1926改造
豊年虫1928週刊朝日
清兵衛と瓢箪1931改造社志賀直哉全集
リズム1931読売新聞
手帖から1933経済往来
万暦赤絵1933中央公論
万暦赤絵1936中央公論社
暗夜行路 後篇1937改造社志賀直哉全集 第8巻
映山紅1940草木屋出版部
灰色の月1945世界
自転車1951新潮
いたづら1955河出書房
白い線1956世界
ナイルの水の一滴1969朝日新聞

関連情報

場所説明内容
広島県尾道市三軒長屋「児を盗む話」より 私は一寸した事にも驚き易くなった。或晩自分でかんだ鼻紙を側へ捨てると、暫くしてそれが独りでコロッと転がった。ビクリとした。それは不思議でも何でもなかった。
千葉県我孫子市雁明緑地六畳書斎『城の崎にて』『赤西蠣太』『和解』『焚火』『小僧の神様』『真鶴』などをこの地で発表。
鳥取県大山町 蓮浄院跡「暗夜行路ゆかりの地 志賀直哉」の碑『暗夜行路』より 彼は起きて、自ら雨戸を繰った。戸外は灰色をした深い霧で、前の大きな杉の木が薄墨色にぼんやりと僅にその輪郭を示していた。流れ込む霧が匂った。肌には冷々気持がよかった。雨と思ったのは濃い霧が萱屋根を滴となって伝い落ちる音だった。
東京都新宿区西早稲田早稲田大学会津八一記念博物館谷崎潤一郎・志賀直哉愛蔵の観音像 (平成23年10月4日発見、志賀直哉旧居に写真展示) 「早春の旅」より 前、谷崎君の所にあり、今は私の所にある観音像も手と足に不純な直しがあったのを明珍さんにとって貰い、今は大変よくなった。
東京都目黒区駒場日本近代文学館志賀直哉宛書簡類等 所蔵
奈良市高畑町 志賀直哉旧居昭和12年(1937)『暗夜行路』完成の家 平成21年5月「直哉の時代に戻す」復元工事竣工 参考文献『志賀直哉旧居の復元』編著 呉谷充利 発行 学校法人奈良学園   2009年(平成21)9月30日
兵庫県美方郡香美町香住区森 大乗寺(応挙寺) 『暗夜行路』より 彼はその晩、城崎へ泊る事にして、豊岡を出ると、車窓から名高い玄武洞を見たいと思っていたが、暗い夜で、広い川の彼方に五つ六つ燈火を見ただけだった。(中略)大乗寺、俗に応挙寺というのがあった。それは城崎から三つ先の香住という所にある。・・・・・・応挙は書院と次の間と仏壇の前の唐紙を描いていた。書院の墨絵の山水が殊によく思われた。・・・・
兵庫県豊岡市城崎詩碑『城の崎にて』の地
兵庫県豊岡市城崎町文芸館詩碑『城崎にて』 山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者にいわれた。(中略)ある朝の事、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。他の蜂は一向に冷淡だった。  

受賞歴

受賞年受賞内容受賞作品
1949文化勲章受章
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