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兵庫ゆかりの作家

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とくとみ ろか徳冨 蘆花

  • 明治1~昭和2
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:熊本県

PROFILE

兵庫県城崎町を訪問。兵庫県ゆかりの作品に『不如帰』がある。 明治元年(1868)肥後国葦北郡水俣郷生まれ。兄は徳冨蘇峰(猪一郎)。熊本で幼少期を送り、神風連の乱を家の中から覗いたこともある。明治11年(1878)に兄、猪一郎に連れられて京都同志社に入学。明治13年(1880)6月、同志社を出て熊本に帰り、文学書に親しむ。キリスト教の先礼を受け、キリスト教徒となる。明治19年(1886)同志社に復学するが、周囲の反対を押し切って新島襄の義理の姪山本久栄と駆け落ちする。明治22年(1889)猪一郎の経営する民友社の翻訳や校正の仕事をしながらの下積み生活の後、明治31年(1898)「不如帰」の連載が始まり、明治33年(1900)民友社より刊行。同年『思出の記』を刊行。名声大いに上がった。明治39年(1906)、トルストイに深く感激し、ロシアにトルストイを訪問。翌年明治40年(1907)には「美的百姓」を目指して田園生活を営んだ。大正15年(1926)自伝小説「冨士」の校正を終わって体の不調を訴え、翌年の昭和2年(1927)9月18日に群馬県伊香保の千明仁泉亭で死去。明治29年(1896)から不和が表面化していた兄猪一郎とは死ぬ直前に和解した。大正2年(1913)、兵庫県城崎温泉に来遊した。

《 略年譜 》

年齢事項
1868010月25日、熊本県葦北郡水俣(現:水俣市)に父一敬、母久子の次男として生まれる。兄は猪一郎(蘇峰)。
18746私塾日新堂幼年塾に入学(同年塾が併合された新設の本山小学校に転校)。成績優秀だったが身体虚弱のため、神経質な少年時代を送った。
1876810月、神風連の乱を目撃し、強い衝撃を受ける。
187810兄猪一郎に連れられ、京都の同志社に入学。
188012同志社を退学して帰郷し、熊本共立学舎に入る。
188517熊本三年坂のメソジスト教会で受洗。従弟伊勢(横井)時雄が牧している愛媛県今治町に行き、伝道にに明け暮れる。傍ら英語教師をつとめた。
188618再び京都に出て同志社に再入学。
188719新島襄の義理の姪、山本久栄と失恋。再入学した同志社を中退する。
188820熊本英学校教師となる。
188921上京し、兄猪一郎が設立した民友社に入る。翻訳や校正の仕事にも従事した。
189426父から財産の分与を受ける。原田愛子と結婚。この結婚は父との軋轢を生むもととなった。
189628兄猪一郎に対する反抗的態度が顕在化し始める。
189830小説『不如帰』の連載が始まる。
1900328月、『自然と人生』刊行。また、この年『不如帰』、『思出の記』を刊行。文名大いに上がる。
1903351月、自宅に黒潮社設立。2月『小説 黒潮第一篇』を兄猪一郎に対する告別の辞を巻頭に掲げて刊行。
1906384月、パレスチナを経てロシアにトルストイを訪問する。シベリア経由で8月帰国した。
191345田園生活の記録『みゝずのたはこと』刊行。9月から九州、南満州、朝鮮を旅行した。
1917492月、来日中の小トルストイを自宅に招く。
1919511月、世界一周の旅に出る。翌年3月に帰国。
1924561月、以降の執筆を遺言と定める。『小説 冨士』第一巻を起稿。
192759健康がすぐれず、8月、重態であることを公表。9月18日、長年連絡を取らなかった兄猪一郎と対面して喜ぶが、夕方から容態悪化し、同日死去。
逝去地
群馬県伊香保
兵庫県との関係
訪問(城崎)

代表作品

作品名刊行年版元備考
自然と人生1900民友社
不如帰1900民友社
富士(全4巻)1928福永書店
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