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兵庫ゆかりの作家

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きとう几董

  • 寛保元~寛政元
  • ジャンル: 俳人
  • 出身:京都

PROFILE

【兵庫県との関係】
安永4年(1775)冬の播磨紀行、同6年4月の灘旅行ののち、安永7年3月には、師蕪村に伴って、畏友大魯を兵庫の地に見舞い、同地の俳友と俳諧を楽しんだ。
天明8年(1788)正月の京大火に罹災したのち、しばしば灘・伊丹などの知友の許を訪ねて歩いた。そんななか、寛政元年(1789)10月、灘の酒造家松岡士川が有していた伊丹の別荘において急逝した。京都本能寺に葬られる。
【略歴】
初号、雷夫、別号に春夜楼・高子舎・夜半亭(3世)・晋明など。法名、高秀院詐善日事居士。
巴人の高弟几圭の次男で、早くから俳諧に親しむが、本格的には明和7年(1770)3月に蕪村に入門してからであった。以後、『其雪影』『あけ烏』『続明烏』など一門の撰集の編集をまかされ、あるいは師蕪村との両吟連句集『ももすもも』の相方を勤めるなど、蕪村の右腕として、その俳諧活動をささえた。そしてみずからも門人を擁し、毎年『初懐紙』を出して、独自の活動を展開した。蕪村の死後には、追悼集を出し、また『蕪村句集』を出版した。一時期洛東岡崎の塩山亭に隠棲したのち、江戸に赴き、蕪村の夜半亭を継承して3世となり、蕪村時代より広範囲な俳諧活動を展開した。しかし、天明8年の大火以後は、近畿各地を転々とするなかでの活動を余儀なくされ、ついに伊丹で客死することになった。
発句のみならず、ことに連句に才能を発揮し、蕪村から俳諧の実力を認められた。それとともに、穏和な人柄によって、夜半亭の経営にとって欠かせない存在であった。また、京都および畿内の俳人とのつきあいにとどまらず、江戸・名古屋・信州など遠隔地の俳人とも積極的に交流し、中興期俳壇の隆盛に大いなる貢献をした。元禄俳人の其角に私淑し、その書風を学び、独特の流麗な筆跡に巧みであった。

――須磨寺や軒のしのぶに菫ばな――(『晋明集三編』)

逝去地
伊丹
兵庫県との関係
訪問 灘・須磨・伊丹
もっと詳しく知るために
几董発句全集 浅見美智子 1997 平成9年 八木書店

代表作品

作品名刊行年版元備考
几董句稿(俳諧句稿)1770収録:『天理善本叢書』(一部は『蕪村全集3』)
其雪影(俳諧撰集)1771収録:『古典俳文学大系13』
夜半亭初懐紙(春興帖)1776私家版
続一夜松(俳諧撰集)1787収録:『古典俳文学大系13』
井華集(俳諧句集)1789収録:『古典俳文学大系13』

文学碑

場所 碑文
神戸市中央区大竜寺 山門は椎にかくれて呼千鳥     其桃
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