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兵庫ゆかりの作家

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そういん宗因

  • 慶長10~天和2
  • ジャンル: 俳人・連歌師
  • 出身:熊本

PROFILE

【兵庫県との関係】
大坂天満宮の連歌所の宗匠で、軽妙な詠み振りの俳諧によってもその名が知られていた西山宗因はたびたび兵庫県を訪れている。
まず、当時、伊丹に也雲軒を構えていた池田宗丹のもとを幾度か訪れている。確実に知られるのは延宝8年(1680)。『続七車』によれば、也雲軒に泊まっていた宗因を、二十歳の鬼貫が早朝に尋ねて面会している。鬼貫はそれ以前にも、何度か宗因と会う機会があった。
明石藩主松平信之に招かれて同地を訪れたこともたびたびあった。寛文11年(1671)12月には信之の鷹狩に同行して神出庄(かんでのしょう 神戸市西区)に赴いたが、この折の模様を「明石山庄記(かんでさんそうのき)」に著した。その末尾には、「明石八景(仙廟朝霧 大倉暮雨 藤江帰帆 清水夕照 印南鳴鹿 絵島晴雪 尾上晩鐘 明石秋月)」を詠んだ連歌の発句が収められている。翌寛文12年正月17日から21日にかけては、明石人丸社に奉納するための「明石浦人丸社千句」の興行に参加し、さらに翌年の延宝元年11月には、再び明石を尋ねて、信之と両吟百韻(「よむとつきし人丸つらゆき玉霰 宗因/杜子美東坡が竹の冬枯れ 信之」)を興行した。このほかにも承応2年(1653)、美作国津山(岡山県)へ向かう折、須磨で「いなづまもかよふや光須磨源氏」、明石で「あかし船一夜かぎりか朝霧か」などと詠んだ(『津山紀行』)。
【略歴】
宗因は、肥後八代に生まれた。熊本藩主加藤忠広の城代家老で八代藩主であった加藤正方(号風庵)に仕える。青年期に京都で連歌を学ぶが、加藤家改易後、大坂天満宮の連歌所宗匠として月次連歌(つきなみれんが)を再興する。その宗因のもとには、大坂の富裕な町人層が集い、連歌の果てた後に俳諧に興じたと想像されるが、宗因の俳諧の読み振りは、「ながむとて花にも痛し頚の骨」のごとく、軽妙な中に詩的な情緒を感じさせるものであった。そうした才能を慕って、井原西鶴らは宗因流の俳諧を標榜し、いわゆる談林俳諧の祖といわれるようになった。

――里人のわたり候か橋の霜――

兵庫県との関係
来訪 明石・伊丹
もっと詳しく知るために
談林叢談 野間光辰 1987 昭和62年 岩波書店

代表作品

作品名刊行年版元備考
津山紀行(紀行・自筆本)1653
神出山庄記(紀行・自筆本)1671
西山三籟集(にしやまさんらいしゅう)(連歌句集・西山昌林/編)1734
むかし口(俳諧句集・上田秋成/編)1777

文学碑

場所 碑文
伊丹市宮の前2丁目柿衛文庫北道路沿 天もよへりけにや伊丹の大燈籠     宗因

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