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田辺 聖子

たなべ せいこ田辺 聖子

  • 昭和3~(1928~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪市福島区

作品名

海はるか心づくしの須磨の巻
『田辺聖子全集 第七巻』より抜粋

刊行年

2004

版元

集英社

概要

海はるか心づくしの須磨の巻



 源氏は都を離れる決心をした。
日ごとに大后一派の源氏排斥の気運が募ってくるらしいということが察せられ、源氏にもたらされる情報によると、朝廷では流罪をも考えているらしいという。
勅勘(ちょっかん)を蒙っての流罪となれば、これはもう、天下の罪人となってしまう。
身一つで追われ、所領は没収され、家族は離散し、たとえ家・邸は残ったとしても、いつ、「原因不明の怪火」などということになって焼き立てられないとも限らない。
 政治がいかに非常で冷酷なものであるか、それは今までに政変の歴史をふり返ってみるまでもないのだ。この世界には、正々堂々ということも、公正信義ということもあり得ないのだ。
 源氏は政治の裏を知っている。
 大后側の裏をかくとすれば……。
(方法は一つ。向うが手を打つ前に、都落ちするしかない)
 謹慎の意を表して退去、ということになれば、大后側もどうすることもできないのだ。(ぐずぐずしてはいられない)
と源氏は思った。
方針を定めると、源氏は機敏に準備を始めた。腹心の惟光や良清ともひそかに退去先を議りあった。そうして出てきた結論は、須磨である。
昔、在原行平卿が罪を得て須磨へと流された、ということも、源氏の記憶にはあった。人里はなれて漁師の家もまばらな、さびしい所と聞く。あまり人の出入りの賑わしい所では、謫居の本意に悖るようでもあり、さりとてあまりに都を離れては、残してきた人々が気にかかるのだった。未練げに源氏は思い返し、やはり須磨がもっとも適当に思われた。ただ心乱れるのは、紫の君との別れである。

「どんな淋しいおそろしいところでも、わたくしはいといません。ご一緒できるなら。……わたくしをお伴れ下さいまし。わたくしを置いていらっしゃらないで。ね、お願い」
 とひたむきに縋る紫の君に、源氏はしばらく言葉が出なかった。
 幾夜、連れていきたいと思っては、打ち消したことだろうか。源氏の人生のいちばん大きな絆は、このひとである。一日二日見なくても心さわぐほど、いとしいひとである。ましてこんどの都落ちは、いつまた戻れるというあてもないのだ。

 定めない人の世は、このまま永のわかれになるかもしれない。
 しかし波風よりほか訪う人とてない淋しい海辺に、こんな華奢な、可愛い人を置くわけにはいかない。それに……。
「勅勘の身は、日月の光にも当れぬ、というくらいだよ。――まして女を伴っていったとなれば、風流三昧の遊興と噂されかねない……私たちのゆくすえの幸せのためには、今の辛抱が大事なのだ――わかっておくれ」
 源氏が、やさしくささやくと、姫君は素直にうなずいて長い睫毛を伏せたが、たまっていた涙が、ほろほろとこぼれるのだった。それを見る源氏も、いじらしくて胸が痛くなる。
 額の髪をかきあげて姫君の頬を撫で、
「私の留守のあいだ、あなたは女主人だ。あなたならりっぱに、この邸や、ここの人々を守っていけると信じているよ。――あなたはもう、私の妻なのだから。世間の人は、あなたを何と呼んでいる?  『二条院の上』といって、源氏の君の北の方とみとめているのだよ」
「北の方なら、いっしょに随いていってはいけないの?」
 と紫の君は大きな瞳にうらめしげな色をたたえ、ともすると涙をこぼしそうになる。
 なんという可憐の人だろう。
「北の方は、男の留守を守るものだ。まして罪をおそれて身を隠す男の、留守の邸は世間の物嗤いになりやすい。それをとりしきって、うしろ指させない、というのはたいへんな仕事なのだよ。あなたでないと任せていけないのだ。」
 源氏が静かに、噛んでふくめるようにいうのへ、姫君はさすがに、さかしく聞き、うなずいている。
 もう、姫君ともいえなかった。
 紫の君は十八歳になり、匂やかに影ふかい、?たけた若妻になった。怜悧でおちついた人柄は、姫君を年よりもおとなびてみせ、げんに、こんな場合も、源氏がことをわけて話すと、素直に源氏の言葉にしたがう。
 そのくせ、一瞬、ぱっと、昔の童女のおもかげにもどって、

「では、ほかの、どんな女のひともつれていらっしゃらない?」
「当然じゃないか。」
「きっとよ、どなたもおつれにならないでね。わたくしたちは京と須磨で、たなばたの二つの星になって、夜空に呼び合うの。」
 源氏はものもいえず、紫の君を抱きしめる。この人を置いてどこへ行けようとも思われない。この人のいとしさには、男の肝魂をも絞られる気がする。
 しかしそれゆえにこそ、源氏はなお、この人を捨てて出発しなければならぬ。それが男の分別である。

『田辺聖子全集 第七巻』より抜粋・P232〜P234 /集英社

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