1960 年代に現れるミニマル・アートは、50年代にアメリカのアートシーンを席巻していた抽象表現主義への反動とも捉えることができます。ミニマル・アートでは作家の直感や表現性は排除され、客観的な幾何学的法則が制作の拠り所となります。
カール・アンドレとダン・フレイヴィンは特に徹底的でした。彼らは自ら手を動かして作品を制作することを止め、工業用の材料や市販の製品を用いました。アンドレが用いたのは、作業場で切断してもらった金属板でした。彼はそれらを、加工もせずに床に幾何学的に並べたのです。フレイヴィンが使用したのは蛍光灯でした。彼はあえて規格化された長さの蛍光灯を用い、それを幾何学的な秩序のもとに並べました。
ミニマル・アートの代表的な作家であるソル・ルウィットは、論考「コンセプチュアル・アートに関する断章」(1967年)で、完成した物質としての作品よりも構成の規則となるコンセプトの重視を主張し、コンセプチュアル・アートの立役者の一人ともみなされています。ルウィットは構成の規則として数列の連続性を採用し、しばしばタイトルや招待状などにその規則を示しました。
写真家のベルント&ヒラ・ベッヒャーは、主に産業に関わる建造物を客観的態度で撮影しました。撮影された写真は被写体の機能ごとに分類され、比較できるようにグリッド状に並べられます。彼らの規則化された手法と主観性の排除、その結果としての連続性のあるイメージの形成は、コンセプチュアル・アートとの見逃し難い親近性を示しています。
ハンネ・ダルボーフェンは自らの構想に従って膨大な計算を行いました。しばしば計算の素材となったのは36,525日に及ぶ100 年間の日付でしたが、それは独特の表記法や計算を通じて抽象化されていきました。同時に、そこにはもっと具体的で生々しい時間、つまり、計算の過程として残された膨大な量の数字が物語る、精神的・肉体的負担のかかるこの仕事が要した時間も刻まれています。
河原温の場合、日付や時刻は明確な具体性を持っています。制作の日付をキャンバスに描き続ける《Today》や、自身の起床時間を記した絵葉書《I Got Up》に刻まれた日付や時間は、はっきりと河原自身の行動と結びついた時間であり、作品は彼の人生の克明な記録となっています。
作品が実体的な「かたち」を持つことにこだわらなくなっていく1960-70年代は、従来の意味での絵画が成り立たなくなった時代でした。そのような中、これまでとは異なる観点から「絵画」の可能性を追求する作家が現れます。彼らは絵画のありようと前提条件を原理的に問い直すことから制作をスタートしています。
白を基調とした正方形の絵画で知られるロバート・ライマンは、絵画を成立させるそれ以外のあらゆる要素について様々な試みを行い、絵画の構造とその微妙な変化に意識を向けます。ゲルハルト・リヒターは、具象と抽象、単彩と多彩等、様々な形式の作品を手掛けます。彼は様々なスタイルを等価に扱う中で、絵画の課題自体を掘り下げています。ブリンキー・パレルモは常に絵画を出発点にしながらも、素材やサイズ、展示方法等をそれまでの慣習と違えることで、物体とイメージの間を揺れ動く存在を作りだします。
絵画の額や彫刻の台は、作品として作られた世界とその周囲の現実世界を分ける境界として機能する側面がありました。この境界を越えて、周囲の空間、状況や環境も含めて、作品の重要な要素とみなす傾向が1960-70年代に現れます。
ダニエル・ビュレンは、彼のトレードマークのような存在となった8.7cm幅のストライプによって場を異化し、それを見る者が意識的に周囲の空間を知覚することを促します。
軍事用語でレーダーに表れた輝点を意味する「ブリップ(blip)」に由来するリチャード・アートシュワーガーの〈Blp〉シリーズは、展示室の割り当てられた壁におとなしく設置されるのではなく、思いもよらない場所に潜んで我々を待ちかまえています。
伝統的な父権制や権威主義的な支配・管理体制への抵抗、高度経済成長と消費社会への反発等を反映した出来事が、国や地域によって異なる背景を持ちながらもこの時代に同時多発的に起こりました。アメリカで始まり世界的に広がったベトナム反戦運動、パリ5月革命やヒッピー・ムーブメント等は、その顕著な表れです。同時代の美術作品もまた、世界的に広がるこの反体制的な空気を吸って生み出されました。
マルセル・ブロータースは、美術をとりまく権威的な制度や慣習に切り込む作品を多く手がけたことで知られます。また、ローター・バウムガルテンは、その活動初期から一貫して西洋的な思考方法を疑い、自然と文明の二分法を廃して人類学の方法を批判的に応用した作品を展開しました。
リチャード・ロングは学生時代の1967年の作品《歩行による線》で、草地の2 地点間を繰り返し歩いて草を平らにならし、一筋の線を出現させて写真に記録しました。その7年前、スタンリー・ブラウンはアムステルダム市内の道に紙を広げ、その上を歩いた通行人の足跡を作品として発表しました。ふたりの作家がそれぞれの創作活動の最初期に歩行と芸術を結びつけ、またその直接的で物理的な痕跡を作品に取り込んだことは興味深い事実です。
従来の絵画や彫刻の制作方法からアーティストが自らを解き放とうとしていた時代にあって、私たちにとって最も基本的で日常的な「歩く」ということに、ブラウンとロングは目を向けました。
ヤン・ディベッツの仕事は一貫して知覚に関するものであるといえます。彼の〈遠近法の修正〉シリーズでは、芝生の表面にロープで囲んだ形状やスタジオの壁面に描いた矩形が、写真上ではフラットな正方形に見えるように、その物理的形状やカメラの角度が調整されました。
1970 年以降、ブルース・ナウマンは照明の色や空間の構造を操作することで知覚的に異質な環境を作り出し、何らかの違和感を経験させるインスタレーションを発表しました。
ディベッツとナウマンの作品は、知覚の機能やプロセスに私たちの意識を向け、またある知覚の経験の場として作品が立ち現れるという、60年代から70年代のアートにおけるひとつの重要な状況を共有していました。
ブルース・ナウマンは大学卒業後にサンフランシスコに移ると、食料雑貨店だった建物をスタジオ兼住居として利用しました。スタジオという日常における活動を重視しながら、ナウマンにとって日常生活と芸術表現とは分かちがたく、相互に関係し合いながら存在しています。
日常を題材としながら、より根源的な意味で日常と芸術、さらには人生と芸術とを一体化させたのがギルバート&ジョージでした。1969 年に「生きる彫刻」となって自分たち自身を彫刻として提示して以来、芸術家と芸術作品は文字通りひとつとなり、活動が展開されます。
日常性は、80年代以降ますます幅広いアーティストによって共有される傾向となり、今日のアートを語る上で極めて重要なテーマのひとつとなっています。