弟テオを頼ってパリに出たファン・ゴッホは、初めて目にする印象派の作品に大きく衝撃を受けます。それから原色を用いた明るい画面作りと筆触を残した描き方を取り入れたことで、作風を劇的に変化させました。その後南仏、パリの北方へと移動する中でファン・ゴッホは自然を観察し、独自の色彩と筆遣いを追究し続けました。
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パリでの出会い
1886年の2月にパリに出たファン・ゴッホは、孤高の画家モンティセリや日本の浮世絵、印象派など彼の芸術に大きな影響を与える出会いをいくつも果たしました。
それと、この頃僕自身がしていることと言えば、モデルに払うお金があれば人物像ばかり 描くところだが、そうでないから花の油絵を描いて色を研究している。
-1886年9月か10月
友人の画家リヴェンスへの手紙より(パリ)
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印象派の画家たち
それまで写実主義的な絵を描いていたファン・ゴッホは、印象派の作品に大きく衝撃を受け、その明るい色遣いや筆触を取り入れるようになりました。
「ピサロが言っていることは本当だ。色を調和させたり、または不調和にすることで生まれた効果は、思い切って強調しなければならない。」
-1888年6月5日頃
弟テオへの手紙より(アルル)
「アントウェルペンでは、僕は印象派が何なのかすらわかっていなかった。今や彼らの作品を見てきて、その一員ではないにしても、印象派の絵のいくつかに大いに感服している-例えばドガの裸婦やクロード・モネの風景画なんかがそうだ。」
-1886年9月から10月
友人の画家リヴェンスへの手紙より(パリ)
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アルルでの開花
南仏の光溢れる景色の中で、ファン・ゴッホは独自の技法を打ち立てていきます。原色を使い、絵の具を厚く塗り重ね、風景や人々を描きとめました。
「周囲を見渡すと自然の中にたくさんの発見があって、それ以外のことを考える時間がほとんど無いことだ。なぜかというと、今はちょうど収穫の時期にあたるからね。〔…〕この1週間はずっと小麦畑の中にいて、太陽にさらされながらとにかく仕事をしたよ。」
-1886年6月21日
弟テオへの手紙より(アルル)
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さらなる探究
精神病の発作によってサン=レミの精神療養院に入っても、またパリ北部に位置するオーヴェール=シュル=オワーズに移っても、ファン・ゴッホは制作する手をとめず最後まで自分自身の芸術を追い求めました。
「サン=レミにいた最後の数日間、一心不乱に花束を描いたよ。薔薇や紫のアイリスだ。」
-1890年6月5日
妹ウィルへの手紙より(オーヴェール=シュル=オワーズ)