とくだ しゅうせい徳田 秋聲
- 明治4~昭和18(1871~1943)
- ジャンル: 小説家
- 出身:金沢
作品名
蒼白い月
刊行年
1920
概要
ある晩私は桂三郎といっしょに、その海岸の山の手の方を少し散歩してみた。
そこは大阪と神戸とのあいだにある美しい海岸の別荘地で、白砂青松といった明るい新開の別荘地であった。私はしばらく大阪の町の煤煙《ばいえん》を浴びつつ、落ち着きのない日を送っていたが、京都を初めとして附近の名勝で、かねがね行ってみたいと思っていた場所を三四箇所見舞って、どこでも期待したほどの興趣の得られなかったのに、気持を悪くしていた。古い都の京では、嵐山《あらしやま》や東山《ひがしやま》などを歩いてみたが、以前に遊んだときほどの感興も得られなかった。生活のまったく絶息してしまったようなこの古い鄙《ひな》びた小さな都会では、干《ひ》からびたような感じのする料理を食べたり、あまりにも自分の心胸と隔絶した、朗らかに柔らかい懈《だる》い薄っぺらな自然にひどく失望してしまったし、すべてが見せもの式になってしまっている奈良にも、関西の厭な名所臭の鼻を衝《つ》くのを感じただけであった。私がもし古美術の研究家というような道楽をでももっていたら、煩《うるさ》いほど残存している寺々の建築や、そこにしまわれてある絵画や彫刻によって、どれだけ慰められ、得をしたかしれなかったが――もちろん私もそういう趣味はないことはないので、それらの宝蔵を瞥見《べっけん》しただけでも、多少のありがた味を感じないわけにはいかなかったが、それも今の私の気分とはだいぶ距離のあるものであった。ただ宇治川の流れと、だらだらした山の新緑が、幾分私の胸にぴったりくるような悦びを感じた。
大阪の町でも、私は最初来たときの驚異が、しばらく見ている間に、いつとなしにしだいに裏切られてゆくのを感じた。経済的には膨脹《ぼうちょう》していても、真の生活意識はここでは、京都の固定的なそれとはまた異った意味で、頽廃《たいはい》しつつあるのではないかとさえ疑われた。何事もすべて小器用にやすやすとし遂げられているこの商工業の都会では、精神的には衰退しつつあるのでなければ幸いだというような気がした。街路は整頓され、洋風の建築は起こされ、郊外は四方に発展して、いたるところの山裾《やますそ》と海辺に、瀟洒《しょうしゃ》な別荘や住宅が新緑の木立のなかに見出《みいだ》された。私はまた洗練された、しかしどれもこれも単純な味しかもたない料理をしばしば食べた。豪華な昔しの面影を止《とど》めた古いこの土地の伝統的な声曲をも聞いた。ちょっと見には美しい女たちの服装などにも目をつけた。
この海岸も、煤煙の都が必然|展《ひら》けてゆかなければならぬ郊外の住宅地もしくは別荘地の一つであった。北方の大阪から神戸兵庫を経て、須磨《すま》の海岸あたりにまで延長していっている阪神の市民に、温和で健やかな空気と、青々した山や海の眺めと、新鮮な食料とで、彼らの休息と慰安を与える新しい住宅地の一つであった。
桂三郎は、私の兄の養子であったが、三四年健康がすぐれないので、勤めていた会社を退いて、若い細君とともにここに静養していることは、彼らとは思いのほか疎々《うとうと》しくなっている私の耳にも入っていたが、今は健康も恢復《かいふく》して、春ごろからまた毎日大阪の方へ通勤しているのであった。彼の仕事はかなり閑散であった。
どこを見ても白チョークでも塗ったような静かな道を、私は莨《たばこ》をふかしながら、かなり歯の低くなった日和《ひより》下駄をはいて、彼と並んでこつこつ歩いた。そこは床屋とか洗濯屋とかパン屋とか雑貨店などのある町筋であった。中には宏大な門構えの屋敷も目についた。はるか上にある六甲《ろっこう》つづきの山の姿が、ぼんやり曇《うる》んだ空に透けてみえた。
「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。もちろん私一箇としては話題がありあまるほどたくさんあった。二人の生活の交渉点《こうしょうてん》へ触れてゆく日になれば、語りたいことや訊きたいことがたくさんあった。三十年以前に死んだ父の末子であった私は、大阪にいる長兄の愛撫《あいぶ》で人となったようなものであった。もちろん年齢にも相当の距離があったとおりに、感情も兄というよりか父といった方が適切なほど、私はこの兄にとって我儘《わがまま》な一箇の驕慢児《きょうまんじ》であることを許されていた。そして母の生家を継ぐのが適当と認められていた私は、どうかすると、兄の後を継ぐべき運命をもっているような暗示を、兄から与えられていた。もちろん私自身はそれらのことに深い考慮を費やす必要を感じなかった。私は私であればそれでいいと思っていた。私の子供たちはまた彼ら自身であればいいわけであった。そして若い時から兄夫婦に育てられていた義姉(兄の妻)の姪《めい》に桂三郎という養子を迎えたからという断わりのあったときにも、私は別に何らの不満を感じなかった。義姉自身の意志が多くそれに働いていたということは、多少不快に思われないことはないにしても、義姉自身の立場からいえば、それは当然すぎるほど当然のことであった。ただ私の父の血が絶えるということが私自身にはどうでもいいことであるにしても、私たちの家にとって幾分寂しいような気がするだけであった。もちろんその寂しい感じには、父や兄に対する私の渝《か》わることのできない純真な敬愛の情をも含めないわけにはいかなかった。それは単純な利害の問題ではなかった。私が父や兄に対する敬愛の思念が深ければ深いほど、自分の力をもって、少しでも彼らを輝かすことができれば私は何をおいても権利というよりは義務を感じずにはいられないはずであった。
しかしそのことはもう取り決められてしまった。桂三郎と妻の雪江との間には、次ぎ次ぎに二人の立派な男の子さえ産まれていた。そして兄たち夫婦の撫育《ぶいく》のもとに、五つと三つになっていた。兄たち夫婦は、その孫たちの愛と、若夫婦のために、くっくと働いているようなものであった。
もちろん老夫婦と若夫婦は、ひととおりは幸福であった。桂三郎は実子より以上にも、兄たち夫婦に愛せられていた。兄には多少の不満もあったが、それは親の愛情から出た温かい深い配慮から出たものであった。義姉はというと、彼女は口を極めて桂三郎を賞めていた。で、また彼女の称讃に値いするだけのいい素質を彼がもっていることも事実であった。
とにかく彼らは幸福であった。雪江が私の机の側へ来て、雑誌などを読んでいるときに、それとなく話しかける口吻《こうふん》によってみると、彼女には幾分の悶《もだ》えがないわけにはいかなかった。学校を出てから、東京へ出て、時代の新しい空気に触れることを希望していながら、固定的な義姉(彼女の養母で叔母)の愛に囚《とら》われて、今のような家庭の主婦となったことについては、彼女自身ははっきり意識していないにしても、私の感じえたところから言えば、多少|枉屈的《おうくつてき》な運命の悲哀がないことはなかった。彼女はその真実の父母の家にあれば、もっと幸福な運命を掴みえたかもしれないのであった。気の弱い彼女は、すべて古めかしい叔母の意思どおりにならせられてきた。
「私の学校友だちは、みんないいところへ片づいていやはります」彼女はそんなことを考えながらも、叔母が択《えら》んでくれた自分の運命に、心から満足しようとしているらしかった。
「ここの経済は、それでもこのごろは桂さんの収入でやっていけるのかね」私はきいた。
「まあそうや」雪江は口のうちで答えていた。
「お父さんを楽させてあげんならんのやけれどな、そこまではいきませんのや」彼女はまた寂しい表情をした。
「どのくらい収入があるのかね」
「いくらもありゃしませんけれどな、お金なぞたんと要らん思う。私はこれで幸福《しあわせ》や」そう言って微笑していた。
もっと快活な女であったように、私は想像していた。もちろん憂鬱《ゆううつ》ではなかったけれど、若い女のもっている自由な感情は、いくらか虐《しいた》げられているらしく見えた。姙娠という生理的の原因もあったかもしれなかった。
桂三郎は静かな落ち着いた青年であった。その気質にはかなり意地の強いところもあるらしく見えたが、それも相互にまだ深い親しみのない私に対する一種の見えと羞恥とから来ているものらしく思われた。彼は眉目形《みめかたち》の美しい男だという評判を、私は東京で時々耳にしていた。雪江は深い愛着を彼にもっていた。
私はこの海辺の町についての桂三郎の説明を聞きつつも、六甲おろしの寒い夜風を幾分気にしながら歩いていた。
「いいえ、ここはまだ山手というほどではありません」桂三郎はのっしりのっしりした持前の口調で私の問いに答えた。
「これからあなた、山手まではずいぶん距離があります」
広い寂しい道路へ私たちは出ていた。松原を切り拓《ひら》いた立派な道路であった。
「立派な道路ですな」
「それああなた、道路はもう、町を形づくるに何よりも大切な問題ですがな」彼はちょっと嵩《かさ》にかかるような口調で応えた。
「もっともこの砂礫《じゃり》じゃ、作物はだめだからね」
「いいえ、作物もようできますぜ。これからあんた先へ行くと、畑地がたくさんありますがな」
「この辺の土地はなかなか高いだろう」
「なかなか高いです」
道路の側の崖《がけ》のうえに、黝《くろ》ずんだ松で押し包んだような新築の家がいたるところに、ちらほら見えた。塀や門構えは、関西特有の瀟洒《しょうしゃ》なものばかりであった。
「こちらへ行ってみましょう」桂三郎は暗い松原蔭の道へと入っていった。そしてそこにも、まだ木香《きが》のするような借家などが、次ぎ次ぎにお茶屋か何かのような意気造りな門に、電燈を掲げていた。
私たちは白い河原のほとりへ出てきた。そこからは青い松原をすかして、二三分ごとに出てゆく電車が、美しい電燈に飾られて、間断なしに通ってゆくのが望まれた。
「ここの村長は――今は替わりましたけれど、先の人がいろいろこの村のために計画して、広い道路をいたるところに作ったり、堤防を築いたり、土地を売って村を富ましたりしたものです。で、計画はなかなか大仕掛けなのです。叔父さんもひと夏子供さんをおつれになって、ここで過ごされたらどうです。それや体にはいいですよ」
「そうね、来てみれば来たいような気もするね。ただあまり広すぎて、取り止めがないじゃないか」
「それああなた、まだ家が建てこまんからそうですけれど……」
「何にしろ広い土地が、まだいたるところにたくさんあるんだね。もちろん東京とちがって、大阪は町がぎっしりだからね。その割にしては郊外の発展はまだ遅々としているよ」
「それああなた、人口が少ないですがな」
「しかし少し癪にさわるね。そうは思わんかね」などと私は笑った。
「初めここへ来たころは、私もそうでした。みんな広大な土地をそれからそれへと買い取って、立派な家を建てますからな。けれど、このごろは何とも思いません。そうやきもきしてもしかたがありませんよって。私たちは今基礎工事中です。金をちびちびためようとは思いません。できるのは一時です」彼はいくらか興奮したような声で言った。
私たちは河原ぞいの道路をあるいていた。河原も道路も蒼白い月影を浴びて、真白に輝いていた。対岸の黒い松原蔭に、灯影がちらほら見えた。道路の傍には松の生《お》い茂った崖が際限もなく続いていた。そしてその裾に深い叢《くさむら》があった。月見草がさいていた。
「これから夏になると、それあ月がいいですぜ」桂三郎はそう言って叢のなかへ入って跪坐《しゃが》んだ。
で、私も青草の中へ踏みこんで、株に腰をおろした。淡い月影が、白々と二人の額を照していた。どこにも人影がみえなかった。対岸のどの家もしんとしていた。犬の声さえ聞こえなかった。もちろん涸《か》れた川には流れの音のあるはずもなかった。
「わたしはこの草の中から、月を見ているのが好きですよ」彼は彼自身のもっている唯一の詩的興趣を披瀝《ひれき》するように言った。
「もっと暑くなると、この草が長く伸びましょう。その中に寝転《ねころ》んで、草の間から月を見ていると、それあいい気持ですぜ」
私は何かしら寂しい物足りなさを感じながら、何か詩歌《しいか》の話でもしかけようかと思ったが、差し控えていた。のみならず、実行上のことにおいても、彼はあまり単純であるように思われた。自分の仕えている主人と現在の職業のほかに、自分の境地を拓《ひら》いてゆくべき欲求も苦悶もなさすぎるようにさえ感ぜられた。兄の話では、今の仕事が大望のある青年としてはそう有望のものではけっしてないのだとのことであった。で、私がこのごろ二十五六年ぶりで大阪で逢った同窓で、ある大きなロシヤ貿易の商会主であるY氏に、一度桂三郎を紹介してくれろというのが、兄の希望であった。私は大阪でY氏と他の五六の学校時代の友人とに招かれて、親しく談話を交えたばかりであった。彼らは皆なこの土地において、有数な地位を占めている人たちであった。中には三十年ぶりに逢う顕官もあった。
私はY氏に桂三郎を紹介することを、兄に約しておいたが、桂三郎自身の口から、その問題は一度も出なかった。彼が私の力を仮りることを屑《いさぎ》よしとしていないのでないとすれば、そうたいした学校を出ていない自分を卑下しているか、さもなければその仕事に興味をもたないのであろうと考えられた。私には判断がつきかねた。
「雪江はどうです」私はそんなことを訊ねてみた。
「雪江ですか」彼は微笑をたたえたらしかった。
「気立のいい女のようだが……」
「それあそうですが、しかしあれでもそういいとこばかりでもありませんね」
「何かいけないところがある?」
「いいえ、別にいけないということもありませんが……」と、彼はそれをどういうふうに言い現わしていいか解らないという調子であった。
が、とにかく彼らは条件なしの幸福児《しあわせもの》ということはできないのかもしれなかった。
私は軽い焦燥を感じたが、同時に雪江に対する憐愍《れんびん》を感じないわけにはいかなかった。
「雪江さんも可哀そうだと思うね。どうかまあよくしてやってもらわなければ。もちろん財産もないので、これからはあなたも骨がおれるかもしれないけれど」私は言った。
「それあもう何です……」彼は草の葉をむしっていた。
話題が少し切迫してきたので、二人は深い触れ合いを避けでもするように、ふと身を起こした。
「海岸へ出てみましょうか」桂三郎は言った。
「そうだね」私は応えた。
ひろびろとした道路が、そこにも開けていた。
「ここはこの間釣りに来たところと、また違うね」私は浜辺へ来たときあたりを見まわしながら言った。
沼地などの多い、土地の低い部分を埋めるために、その辺一帯の砂がところどころ刳《えぐ》り取られてあった。砂の崖がいたるところにできていた。釣に来たときよりは、浪がやや荒かった。
「この辺でも海の荒れることがあるのかね」
「それあありますとも。年に決まって一回か二回はね。そしてその時に、刳り取られたこの砂地が均《なら》されるのです」
海岸には、人の影が少しは見えた。
「叔父さんは海は嫌いですか」
「いや、そうでもない。以前は山の方がよかったけれども、今は海が暢気《のんき》でいい。だがあまり荒い浪は嫌いだね」
「そうですか。私は海辺に育ちましたから浪を見るのが大好きですよ。海が荒れると、見にくるのが楽しみです」
「あすこが大阪かね」私は左手の漂渺《ひょうびょう》とした水霧《すいむ》の果てに、虫のように簇《むらが》ってみえる微かな明りを指しながら言った。
「ちがいますがな。大阪はもっともっと先に、微かに火のちらちらしている他《あれ》ですがな」そう言って彼はまた右手の方を指しながら、
「あれが和田岬《わだみさき》です」
「尼《あま》ヶ|崎《さき》から、あすこへ軍兵の押し寄せてくるのが見えるかしら」私は尼ヶ崎の段を思いだしながら言った。
「あれが淡路《あわじ》ですぜ。よくは見えませんでしょうがね」
私は十八年も前に、この温和な海を渡って、九州の温泉へ行ったときのことを思いだした。私は何かにつけてケアレスな青年であったから、そのころのことは主要な印象のほかは、すべて煙のごとく忘れてしまったけれど、その小さい航海のことは唯今のことのように思われていた。その時分私は放縦《ほうしょう》な浪費ずきなやくざもののように、義姉に思われていた。
私はどこへ行っても寂しかった。そして病後の体を抱いて、この辺をむだに放浪していた、そのころの痩せこけた寂しい姿が痛ましく目に浮かんできた。今の桂三郎のような温良な気分は、どこにも見出せなかった。彼のような幸福な人間では、けっしてなかった。
私はその温泉場で長いあいだ世話になっていた人たちのことを想い起こした。
「おきぬさんも、今ならどんなにでもして、あげるよって芳ちゃんにそう言うてあげておくれやすと、そないに言うてやった。一度行ってみてはどうや」義姉はこの間もそんなことを言った。
私はそのおきぬさんの家の庭の泉石を隔てたお亭《ちん》のなかに暮らしていたのであった。私は何だかその土地が懐かしくなってきた。
「せめて須磨明石《すまあかし》まで行ってみるかな」私は呟《つぶや》いた。
「は、叔父さんがお仕事がおすみでしたら……」桂三郎は応えた。
私たちは月見草などの蓬々《ぼうぼう》と浜風に吹かれている砂丘から砂丘を越えて、帰路についた。六甲の山が、青く目の前に聳《そび》えていた。
雪江との約束を果たすべく、私は一日須磨明石の方へ遊びにいった。もちろんこの辺の名所にはすべて厭な臭味がついているようで、それ以上見たいとは思わなかったし、妻や子供たちの病後も気にかかっていたので、帰りが急がれてはいたが……。
で、わたしは気忙《きぜわ》しい思いで、朝早く停留所へ行った。
その日も桂三郎は大阪の方へ出勤するはずであったが、私は彼をも誘った。
「二人いっしょでなくちゃ困るぜ。桂さんもぜひおいで」私は言った。
「じゃ私も行きます」桂三郎も素直に応じた。
「だが会社の方へ悪いようだったら」
「それは叔父さん、いいんです」
私は支度を急がせた。
雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったところだったが、まだ来ていなかった。
「叔父さんのお蔭で、二人いっしょに遊びに出られますのえ。今日が新婚旅行のようなもんだっせ」雪江はいそいそしながら、帯をしめていた。顔にはほんのり白粉《おしろい》がはかれてあった。
「ほう、綺麗《きれい》になったね」私はからかった。
「そんな着物はいっこう似あわん」桂三郎はちょっと顔を紅くしながら呟いた。
「いくらおめかしをしてもあかん体や」彼はそうも言った。
私たちはすぐに電車のなかにいた。そして少し話に耽っているうちに、神戸へ来ていた。山と海と迫《せま》ったところに細長く展《ひろ》がった神戸の町を私はふたたび見た。二三日前に私はここに旧友をたずねて互いに健康を祝しあいながら町を歩いたのであった。
終点へ来たとき、私たちは別の電車を取るべく停留所へ入った。
「神戸は汚《きたな》い町や」雪江は呟いていた。
「汚いことありゃしませんが」桂三郎は言った。
「神戸も初め?」私は雪江にきいた。
「そうですがな」雪江は暗い目をした。
私は女は誰もそうだという気がした。東京に子供たちを見ている妻も、やっぱりそうであった。
「今度来るとき、おばさんを連れておいんなはれ。おばさんが来られんようでしたら、秀夫さんをおよこしやす。どないにも私が面倒みてあげますよって」彼女はそんなことを言っていた。
「彼らは彼らで、大きくなったら好きなところへ行くだろうよ」
「それあそうや。私も東京へ一度行きます」
私たちはちょっとのことで、気分のまるで変わった電車のなかに並んで腰かけた。播州人《ばんしゅうじん》らしい乗客の顔を、私は眺めまわしていた。でも言葉は大阪と少しも変わりはなかった。山がだんだんなだらかになって、退屈そうな野や町が、私たちの目に懈《だる》く映った。といってどこに南国らしい森の鬱茂《うつも》も平野の展開も見られなかった。すべてがだらけきっているように見えた。私はこれらの自然から産みだされる人間や文化にさえ、疑いを抱かずにはいられないような気がした。温室に咲いた花のような美しさと脆《もろ》さとをもっているのは彼らではないかと思われた。
私たちは間もなく須磨の浜辺へおり立っていた。
「この辺は私もじつはあまり案内者の資格がないようです」桂三郎はそんなことを言いながら、渚《なぎさ》の方へ歩いていった。
美しい砂浜には、玉のような石が敷かれてあった。水がびちょびちょと、それらの小石や砂を洗っていた。青い羅衣《うすもの》をきたような淡路島が、間近に見えた。
「綺麗ですね」などと桂三郎は讃美の声をたてた。
「けどここはまだそんなに綺麗じゃないですよ。舞子が一番綺麗だそうです」
波に打上げられた海月魚《くらげ》が、硝子が熔けたように砂のうえに死んでいた。その下等動物を、私は初めて見た。その中には二三|疋《びき》の小魚を食っているのもあった。
「そら叔父さん綸《いと》が……」雪江は私に注意した。釣をする人たちによって置かれた綸であった。松原が浜の突角に蒼く煙ってみえた。昔しの歌にあるような長閑《のどか》さと麗《うらら》かさがあった。だがそれはそうたいした美しさでもなかった。その上防波堤へ上がって、砂ぶかい汽車や電車の軌道ぞいの往来へあがってみると、高台の方には、単調な松原のなかに、別荘や病院のあるのが目につくだけで、鉄拐《てっかい》ヶ峰や一の谷もつまらなかった。私は風光の生彩をおびた東海の浜を思いださずにはいられなかった。すべてが頽廃《たいはい》の色を帯びていた。
私たちはまた電車で舞子の浜まで行ってみた。
ここの浜も美しかったが、降りてみるほどのことはなかった。
「せっかく来たのやよって、淡路へ渡ってみるといいのや」雪江はパラソルに日をさえながら、飽かず煙波にかすんでみえる島影を眺めていた。
時間や何かのことが、三人のあいだに評議された。
「とにかく肚《はら》がすいた。何か食べようよ」私はこの辺で漁《と》れる鯛《たい》のうまさなどを想像しながら言った。
私たちは松の老木が枝を蔓《はびこ》らせている遊園地を、そこここ捜してあるいた。そしてついに大きな家の一つの門をくぐって入っていった。昔しからの古い格を崩さないというような矜《ほこ》りをもっているらしい、もの堅いその家の二階の一室へ、私たちはやがて案内された。
「ここは顕官の泊るところです。有名な家です」桂三郎は縁側の手摺《てすり》にもたれながら言った。淡路がまるで盆石のように真面《まとも》に眺められた。裾の方にある人家の群れも仄《ほの》かに眺められた。平静な水のうえには、帆影が夢のように動いていた。モーターがひっきりなし明石の方へ漕いでいった。
「あれが漁場《りょうば》漁場へ寄って、魚を集めて阪神へ送るのです」桂三郎はそんな話をした。
やがて女中が高盃《たかつき》に菓子を盛って運んできた。私たちは長閑《のどか》な海を眺めながら、絵葉書などを書いた。
するうち料理が運ばれた。
「へえ、こんなところで天麩羅《てんぷら》を食うんだね」私はこてこて持ちだされた食物を見ながら言った。
「それああんた、あんたは天麩羅は東京ばかりだと思うておいでなさるからいけません」桂三郎は嗤《わら》った。
雪江はおいしそうに、静かに箸《はし》を動かしていた。
紅い血のしたたるような苺《いちご》が、終わりに運ばれた。私はそんな苺を味わったことがなかった。
私たちはそこを出てから、さらに明石の方へ向かったが、そこは前の二つに比べて一番汚なかった。淡路へわたる船を捜したけれど、なかった。私たちは明石の町をそっちこっち歩いた。
人丸山《ひとまるやま》で三人はしばらく憩《いこ》うた。
「あすこの御馳走が一番ようおましゃろ」雪江は言っていた。
私たちは海の色が夕気《ゆうけ》づくころに、停車場を捜しあてて汽車に乗った。海岸の家へ帰りついたのは、もう夜であった。
私はその晩、彼らの家を辞した。二人は乗場まで送ってきた。蒼白い月の下で、私は彼ら夫婦に別れた。白いこの海岸の町を、私はおそらくふたたび見舞うこともないであろう。