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兵庫ゆかりの文学

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深尾 須磨子

ふかお すまこ深尾 須磨子

  • 明治21~昭和49(1888~1974)
  • ジャンル: 詩人
  • 出身:兵庫県氷上郡

作品名

丹波の牧歌

刊行年

1935

版元

書物展望社

概要

六年ぶりの帰郷であつた。いかにも巨大な混乱の網から逃れ出した一尾の魚さながらに、大阪駅から福知山線鳥取ゆきの列車の一隅にくつろいで、私は思はずホッとした。やがて三田あたりから篠山を過ぎる頃には、のんびりと五衛門風呂にでも浸つた気持で、まぎれもない旧山河の趣をしみじみと窓外に眺め入つた。
おなじく丹波とはいつても、私の故郷のそれは兵庫県に属する方で、福知山から三つばかり手前のK駅に二里といふ山里なのである。かつては徒歩か人力車に限られたその道にも、今ではタクシーも通へばバスもずつと山奥の方まで土ぼこりを立てて往復してゐる。
片田舎のものとも思はれぬ新型のフォードで姉の家に乗りつけるやいなや、私はそれが自然の丹波言葉を交換した。
―知らさんならん知らさんならんと思ひましたやけどなあ、たうとう電報も打ちまへなんだぢやあなあ。
―なあしたまあ、一寸知らしてくれてやとよかつたのになあ。
―どうだす、みんな変りござへなんだけ?
―おほきに、お前はどうヂェ、たつしやさうでよいなあ。
それから、一しきり楽しい笑いが古ぼけた家を揺すぶつた。近所の飼牛が「メエ、メエ」と忙しく啼き続けた。
―相変らず牛が啼いとりますなあ。メエお久しぶりだすなあちうとりまつせ。
私の串戯で、またもや一家中が笑ひころげた。まだをさまり切らぬ笑ひを堪へながら、姉はいふのであつた。
―ようそない丹波言葉が忘れずにをられたもんぢやなあ、ほんまにあきれたもんぢやで、そやけどなあ、もうこの頃ではあんたのやうな丹波言葉を使ふもんはここらにでもそないをらんぢやあなあ、なんせェ国定教科書ちうもんがあるさかいなあ、半分は東京言葉を使ふとんのやで、そらえらいもんぢやで。
いかにも大変なことのやうに、感歎口調でいふ姉の言葉を聞きながら、漆黒に煤け切つた鴨居や天井や、さてはロア・ダゴベ式独特の彫刻を虫穴で真似たともいふべき雅致たつぷりな柱や閾をもの珍らしさうに眺め廻した。何しろこの家たるや、丹波でも類稀な古物で、特に今を去る百六七十年前に建てられてから、殆ど手を入れたことのないその母屋ときては、さながら百歳を越えて呼吸をしてゐる人間同様、もはや新旧や老若の感じが通用しないまでに見事に古物化してゐるのである。
―古いもんだすなあ。
まるで掘し出し物の骨董品に見惚れる古物愛好家のやうに、私はしみじみと詠歎した。
古いといへば、この家に附いたものはすべてが古色蒼然である。家具類も、庭木も。特に家の前の堤や池畔の、その幹が白色化した柊や藤になると、私が子供の頃見覚えて以来の、年齢定かならぬ老木で、目にする度に、聊か小さくなつて来たかな、と思はれはしても、決して成長したといふ感じはしない。
私は早速素足に六年ぶりの丹波の土を蹈んだ。そして何となく道祖神でもをろがむ心持で古木の幹の一つ一つに手を触れ、耳を当てがつて、過ぎ去つた幾世紀かの脈を感じ、その声を感じた。
野菜畑では、茄子も胡瓜も既にすがれて、菜のみどりがさえざえと美しかつた。ぶら下つた胡瓜のたね瓜は鼬を想像させた、ところどころから思ひ出したやうに吹き出してゐる小さな二番菜には、黄色の瓜蠅が尚も執念深くたかつてゐた。それを案内役の義兄が一々手ですくつては蹈みにぢつた。

仏蘭西の女流作家コレットは、その作品中で、しばしば他の意表に出るやうな生物の描写を試みてゐる。全く彼女の作品くらゐ自然界の色々に引立てられてゐるものもまづ珍らしいだらう。その作品中で、彼女はどんな素晴らしい客間の卓上にも、必ず雑草の一茎を、あしらふことを忘れない。それがまた薔薇の花よりもあたりの雰囲気とぴつたりしてゐる。といふのも元来彼女が田舎生れのせゐであらうが、それよりも何よりも、彼女がどんなに身を以て田舎を愛し、自然を愛してゐるかを知るなら、その間のことはおのづから解るわけで、生物に対する彼女の知識が、いはゆる文学者らしい杜撰なものと異なり、それこそ実験を積んだ科学者の正確さを備へてゐるのも「どんな場合にも、私はまづ太陽の方に顔を向けてその接吻を受ける。それから、ある限りの動植物、それが私を夢中にする」といふ、それほどの彼女の自然に対する愛に因るのであらう。
(後略)

『兵庫県文学読本 近代編』106〜109P

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