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深尾 須磨子

ふかお すまこ深尾 須磨子

  • 明治21~昭和49(1888~1974)
  • ジャンル: 詩人
  • 出身:兵庫県氷上郡

作品名

丹波の冬山

概要

ひとしきり木がらしや北風が吹きつのった後の、雑木山や、ぬるで林の姿ほど、冬山のよさを思わせるものはない。やや赤みをおびた細やかな梢のくまぐまが、はっきりと空間に描き出されて、朝靄の晴れぎわに陽が当ると、それこそ燃えたつかと思われるほど美しい。そんなながめを、私はよく東海道を走る列車の食堂の窓から送り迎えて、あわただしい旅の身を忘れ、しみじみ朝食をたのしむのだが、元来山また山の山奥に、山を友に、というよりも、いっそ山にだかれて育った私などには、山とさえいえば、一種骨肉に対すると同様のなつかしさを覚えずにはいられない。
山々に骨肉のなつかしさを感じる私にとって、もともと山と名のつくものなら何でもけっこうだが、わけても私に親しみ深いのは、どこどこまでも人里に近い、つまり村人達がまるで薪小屋をでも往復するようにいったり来たりする普通の山である。
近頃流行の登山熱やスキー熱にかられて、都会人が競ってつめかける有名な山々も決してわるくはない。しかし、山を日常生活の主要なものにして育った私などには、いわゆる雑木山やぬるでの林といったような普通の山こそ山の中の山である。およそ貧しい村人達にとって燃料や食料を供給するばかりか、春秋の候には彼等の楽しい享楽地とさえなるのがその種の山なのだ。「翁は山へ柴刈りに……」要するにその山が、常に山好きの私の脳裏を去らぬ山なのだ。ということになる。
そこで、冬山を書くについても、私のペンはいきおい故郷丹波の山々を取上げるわけになる。全く身びいきではないが、村人達の納屋の役目をつとめている丹波の山々と、それを中心にいとなまれる村人達の素朴な生活とは、春夏秋冬を問わず、ぜひ共より多くの人々に知ってもらいたいと願わずにはいられない。
冬柴の冴えや、小枝がくれにしば鳴く青い鳥など、こまやかな冬山のおもむきを、心ゆくまでなつかしむことの出来るのもまず丹波の山々である。
初冬の候、ちょっと人里離れた山にはいると、鶏が爪をひろげたような形の、ケンポナシの枝が色づいている。木はエノキに似た喬木で、渋さと甘さの半ばしたような味の、洗練された都会人の味覚には合いそうにもないその枝も、つつましい村人達にとってはけっこうな果物である。また、村人達の間では、ともすると吝嗇家にたとえられる野生の豆柿センゴが、からすも食べない渋い味を霜にさらされて、山のそこかしこに甘く色づいているのもこの頃である。
その他、ふもとの生え込みなどに、真赤に熟した、サンキライの実の淡い甘さなども、村童の味覚を喜ばせるには十分だ。
この頃、村人達は柴刈りとこくば掻き(落葉掻き)に忙殺される。日毎に冬柴を山から刈りとって、日当りのよいところに積み上げておくのだ。つまりひと冬の間枯らしておく。一年中の燃料を絶やさないように。それは村人達にとって大切な仕事である。
こくば掻きはおもに女子供の仕事である。竹のがんじき(熊手)で掻き集めた松の落葉を、かごに山盛りにして、それを背負い、蟻が餌を巣に運ぶように、天気さえよければ、何度となく家と山とを往復するのだ。
冬柴とこくばとを十分にとり入れると、やがて本式の冬が近づいて来る。北よりの風が日毎にとぎすまされて、夜など、掻き集めて来たこくばを炉に燃やしながら、夜業にふかす村人達の耳には、深い山奥の方に当って、ゴウ、ゴウというすさまじい雪おこしの響きが手にとるように聞える。さあ、雪だ!いよいよ冬ごもりの季節がやってくるのだ。

冬ごもり、しかしそこにも、山は村人達を決して戸内にとじ込めてはおかない。
丹波の山は村人達にとっての狩り場である。餌を求めて深山から出て来る兎や猪を、鉄砲や罠でせしめるのだ。
大阪から出ている福知山線に沿った私の故郷丹波地方は、狩猟地としても京阪方面においては知られているだけに、この頃ではかなり遠来の狩猟家も多いということだ。獲物としては小鳥では百舌、鶫等で、獣では前述の兎や猪等だ。
動物愛護などということは棚に上げて、うさぎであれ、猪であれ、その肉を、裏の畑からとって来た、さんざん霜や雪でなめされたねぎといっしょに煮て食べる醍醐味ときては、それこそどんなに自慢の都会料理も顔負けである。
とくに、雪の降る頃の猪の美味ときては、まさに獣肉の王者格で、近頃では丹波の猪といえば東京あたりでもかなり珍重されているようだが、いずれにしても猪の鍋は親しく丹波に出向いてかこむのに限るようだ。福知山線の篠山あたりなら、猪料理を食べさせる家はざらにあるだろう。
こんもりとした山ふところのありがたさを知ることの出来るのもまた冬山である。第一、風というものがすこしも当らず、おまけにそれが南受けででもあるなら、ポカポカと、まるで温室以上の温かさだ。すこしくらいの雪ならなおさら温かい。
冬山のふところに抱かれて、じっと冬山の声にきき入ってごらんなさい。人生の孤独がじかに悟られて、万人に対するいじらしさと、親しみが、ほのぼのとわき上ってくるに違いない。

『日本随筆紀行第19巻 神戸/兵庫 ふり向けば港の灯り』作品社 204?207P

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