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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

六甲山心中

概要

「六甲山心中」

陳舜臣


六甲の山のすみずみに、『秋』がしみこんでいた。この山独特の濃紺のあじさいの花が、色あせて枯れ死んだのは、もうだいぶまえのことである。
休日にはまだ家族連れのハイカーのすがたをみかける。が、ほとんど毎日のように色とりどりの行楽客でにぎわった、あの夏のシーズンのおもかげはなくなった。山上のホテルは、去年までは夏が終ると休業した。ことしから年じゅう営業することになったが、もちろん宿泊客はぐっと減っている。
あじさいが衰えると、紅紫や白のむくげの季節となる。朝早くみずみずしい花を咲かせるが、日が暮れるとたちまち萎んでしまうむくげは、秋にふさわしい哀しい花である。
ホトトギスの美声も、六甲の谷間ではもはやきかれなくなった。彼らは南の国に帰ったのだ。未練がましく紅葉しかけた樹にすがりついて、おそくまで鳴いていたエゾゼミの軋むような声も、いつのまにか消えてしまった。
六甲山は夏がはなやかであるだけに、秋の風物はよけい荒涼としてみえた。
夜明け前の山には、ほかに人影はない。ほの暗いなかに、ただ一組の若い男女が、みやこ笹のなかをゆっくりと歩いているだけだった。その足どりからも、二人がひどくくたびれていることがわかる。肉体的な疲労ばかりではなく、心の芯を折られ、うちひしがれた人間の消耗ぶりが、彼らのうしろ姿にうかがわれた。
「もうだいぶ降りてきたの?」
と、女がきいた。
「まだだよ。みやこ笹の生えているのは、だいぶ高いところなんだ」
若い男はそう答えて、そっとため息をもらした。
「ずいぶん歩いたのに?」
「ぐるぐるとまわっていたんだよ」
「そうかしら?」
女はかがんで、笹をつかんで抜こうとした。だが、彼女の力では抜けなかった。
「抜けるものか」と、男は言った。「そいつは一本で、白くなって枯れているけど、やっぱり土に深く食いこんでるんだ」
「あたしたちとはちがうのね」
女はあきらめて立ちあがった。
みやこ笹は、ふつうの笹のように根もとから何本も枝を出すことはない。どれも一本ずつで、枯れるときは、染まるようにしだいに白くなって行く。六甲山のみやこ笹は、世界的な珍種として知られている。七百メートル以上の高地にしか生えない。
「ぼくたちは、根もとから枝が二本生えてるんだ」
男は女の腕をとって、そう言った。
「でも、あたしたち、地面のなかに根を張っていないわ。すぐにもひっこ抜ける。……」

「疲れた?」
女はうなずいた。
六甲山名物は、あじさいやみやこ笹だけではない。年間、五十人以上の自殺者が出る。死場所をもとめて、山のなかをうろつく人がたえない。若い男女が大部分で、ここで自殺する人は、たいてい遺書を残さないのが特色であるといわれている。
男のグレイのズボンの裾は、ぐっしょり濡れていた。女は青いスラックスをつけて、素足に白い運動靴をはいている。歩くたびに、靴のなかでじゅくじゅくと音がした。夜露の草地をながいあいだ歩いたのだった。彼らも遺書はもっていなかった。
「どうするの?」
と、女はきいた。
疲れきって蒼ざめているが、それでも若さはその顔からまったく消し去られたわけではない。彼女はちょうど二十である。男は三つ年上だった。
「いまは、ただ歩いてるだけだよ」
と、男は答えた。
(後略)

『六甲山心中』中央公論社 7P〜9P

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