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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

秘閣の海

概要

「秘閣の海」

陳舜臣
     1

須磨の早崎邸を訪れるのは、久し振りであった。早崎順造が東京に出たあと、いちども足をむけていないから、かれこれ三十年になる。あたりはすっかり変わっていた。
マンションがたちならぶなかに、早崎邸が埋没しているかんじである。私がよく訪れていたころの早崎邸は、和洋折衷の二階建の母屋に茶室と土蔵がついていて、あたりを睥睨する趣きがあった。なによりも敷地が五千坪もあり、近辺に高層建築はほとんどなかったのだ。
「変わったろう?」
玄関まで出てきた早崎順造はそう言った。
「迷いそうだったよ」
かつては早崎邸がめじるしだった。早崎さんの前の通りをずっと西に、といったふうに乗客がタクシーの運転手に告げたものだった。ところが、いまは高層マンションのどれかの名を言わねばならない。
「おやじも頑固だったから」
廊下を歩きながら早崎は言った。家のなかにはいると、まったく昔のままであった。応接間のたたずまいも、すこしも変わっていない。ソファーがそのときのままだったかどうか、私にはそこまではわからない。なにしろ、この家に来ると、当時の私はいつも心ここにあらず、というありさまだったのだから。
清子という美しい女性がこの家にいたのである。楚々、という形容がぴったりのかんじで、私は彼女に夢中になっていた。彼女は早崎順造の嫂であった。だが、私がはじめて早崎邸を訪ねたとき、彼女はすでに未亡人だったのである。早崎順造の兄健一は、その前年に病歿していた。
早崎家は、第一次世界大戦のときの船成金であった。順造の祖父の時代だが、五千坪の敷地に和風の大邸宅が、それこそ文字どおりそびえたっていた。建築前に、その部分に土を盛りあげて高くしたのである。通称早崎御殿は、順造の祖父の好みであり、順造の父はそれを「成金趣昧」として嫌っていた。
御殿の雨戸の開け閉めだけのために、一人の大の男がかかりきりになっていたという。早朝、雨戸を開けはじめる。御殿のあらゆる雨戸を開け終わり、一服すると、こんどは閉めはじめなければならない、という話が伝わっていた。いささか大袈裟だが、まったくの法螺話ともいえないことだったらしい。
この早崎御殿は、空襲で焼失した。戦後、まもなく順造の祖父が死に、再建された早崎邸は成金趣味が清算されたのである。ただ敷地の広さはもとのままなので、建物のわりに庭が異様に広くなったのだ。
これほどのお邸だから、巷でいろんな噂の種にされるのは仕方のないことであろう。私も清子さんに会う前に、彼女の身の上を巷の噂で知っていた。それは庶民にとっては、恰好のストーリーだったのである。
清子さんは東京の下町育ちで、父親は職人であったという。早崎健一は東京の大学に在学中、ふとしたことから彼女と知り合った。
――そら無理ないわ、ひと目惚れするのも。なんせあんな別嬪やさかいな。
私は会う前から、彼女が絶世の美女であることを、そんな巷の噂で知っていたのだ。
大富豪の息子と職人の娘。これは釣り合わない。早崎家はとうぜん反対であった。だが、早崎健一はあきらめなかった。彼は大学を出て、早崎家と関連のある東京の倉庫会社に勤めたが、戦局がきびしくなり、第三乙種の彼も応召の可能性が高くなった。早崎家はついに折れて、結婚を許したといういきさつであったらしい。戦争の末期、父の早崎要太郎は、息子を神戸に呼び戻し、事業の後継者に育てるため、鍛えると言い出した。本心は、いつ兵隊に取られるかわからない息子を、できるだけ身近に置きたいと思っての措置であったようだ。
健一が兵隊に取られたのは、終戦の年の二月になってからなので、とうぜん内地勤務であった。そのあいだ、清子さんは早崎家にいたが、彼女には苛酷な運命が待ちうけていた。東京大空襲で、両親と弟――彼女の全家族が死んだのである。彼女の兄は前年、南方の戦線で戦死していた。
夫が復員して、やっと息をついたが、もともとこの結婚に反対していた姑とのあいだがうまく行かず、つらい日々を送っていたという。かんじんの夫は、僅か半年の軍隊生活で、すっかりからだをこわしたようで、復員後も病気がちであった。夫婦のあいだには、子供も生まれなかった。
昭和三十年――終戦からちょうど十年目に、健一は三十六年の生涯を閉じた。天涯孤独の清子さんは、しばらく早崎家に残るほかなかったのである。
(後略)

『異人館周辺』文藝春秋 208P〜211P

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