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兵庫ゆかりの文学

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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

梅花拳

概要

「梅花拳」

陳舜臣


じゃぱゆきさんのことが、よくマスコミにとりあげられている。観光とか留学とか、いろんな形をとるので、入国審査も難しいという。この種の問題は、スケールの差こそあれ、むかしからあったようだ。
私が生まれたころというから、大正末期の話である。当時、日本の植民地であった台湾と日本「内地」との往来は、本来なら自由であるべきなのに、現実にはそうではなかった。台湾航路の内地側発着港は神戸で、そこの水上警察が人の出入りをチェックしていた。おもに社会主義者のうごきと、若い女性の「じゃぱゆきさん」に重点が置かれていたらしい。
ある日、水上署の人が私の祖父を訪ねてきた。赤ん坊の私は、祖父の膝にのっていたそうだ。来訪の用件は、台湾から来た一人の若い女性の身元保証人になってほしい、ということだった。彼女は熱心なカトリックの信者で、台湾で家出をして、内地の修道院にはいろうとしているという。
水上署のその筋の役人は、やはり見る目があり、彼女の話に偽りはないと信じた。じゃぱゆきさんなら、家出をしたなどと言うものではない。ともあれ、彼女は一応、審査にひっかかっているが、しっかりした身元保証人があれば、上陸を許そうということになったのである。
祖父は引受けることにしたが、「続柄」をどうするかが問題になった。おそらく水上署の人の入智恵で、「養女」とすることにきめた。戸籍には養女などはいないが、つつこまれたなら、養女にする予定、と言うことにしたらしい。私の父は四人兄弟で、女のきょうだいはいなかった。祖父が養女のことを考えたとしても不自然とはいえない。
その娘さんは、無事上陸できたが、けっきょく、修道院へ行かずに、神戸で同国人と結婚してしまった。その後も、彼女は私の祖父を「お父さん」、父を「お兄さん」と呼び、私たちも彼女を「姑母(父方のおば)」と呼ぶようにいわれた。もちろん戸籍にはいっていないが、親戚づき合いをつづけている。
子供のころから、この話をきいているので、私は阿蘭などはうまく網をくぐってきたものだとおもう。
阿蘭は十五歳のとき、台湾から日本にやってきた。彼女は小柄で、年よりは若くみえるので、
――小学校を卒業して、日本内地の女学校にはいりにきた。
と言うと、なんの問題もなかったそうだ。叔父と名乗る男が迎えにきていたが、それは女衒であったのだ。
阿蘭は神戸に住む七十歳の老人の妾になった。その老人は呂宋(フィリピン)帰りの台湾人であり、数年後、死んでしまった。阿蘭は早くから自由になれたのである。
阿蘭の本名を、私は知らない。何人かの人に訊いてみたが、誰も知っていなかった。香蘭とか素蘭とか玉蘭など、蘭のつく名前は女性に多い。神戸の華僑社会にも多く、その人たちは、たいてい「阿蘭」と呼ばれる。阿は日本の「お」に相当する。お蘭である。だが、彼女を「阿蘭」と呼ぶときは、その口調で、ほかの阿蘭でないことがすぐにわかるのだ。

老人に死なれたあと、阿蘭は何人もの男と同棲したが、男運はきわめて悪かった。まだ若いのに死んでしまったり、女をつくって逃げ出したり、借金をつくって夜逃げしたり、そんな男ばかりで、彼女はまったくついていない。戦時中は、かなりましな船員と暮していたが、彼の乗った輸送船が、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈み、彼も船と運命をともにしてしまった。
ずいぶん悲しい目に遭っているはずなのに、悲しそうなようすをした阿蘭を、私はこれまで見た記憶がない。いつもしあわせそうに笑っている。チェーホフの『可愛い女』が連想されるほどだった。
「あれは、頭がどうかしているぜ」
と言う人もいるが、彼女の頭はしっかりしている。中国人の女性で、方言しか話せない人たちが、グループで北京語を勉強したことがある。驚いたことに、小学校教育もろくに受けていないはずの彼女が、クラスで最もよくできたのだ。
五十をいくつかすぎてから、阿蘭はまた男と同棲した。何番目の男か、本人もかぞえていないかもしれない。さすがに照れて、「これでおしまいよ」と言っていたらしい。大阪で万博がひらかれたころである。「おしまいかどうか、わかるものか、阿蘭のことだからな」と、言う者もいた。
「十五のときの最初の男が七十で、五十をすぎてからの最後の男が六十代。おもしろいね」
これはなにも他人のひやかしではない、彼女自身の口から出たせりふである。
(後略)

『異人館周辺』文藝春秋 154P?157P

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