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兵庫ゆかりの文学

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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

パンディット

概要

「パンディット」

陳舜臣

「ラマ寺」と、ぼくたちが呼んでいる場所があった。それは寺といえるような建物ではなく、神戸の三宮にあった白雲楼という中華料理店の裏口をはいった、狭い部屋のことだったのである。
誰がそう言い出したのかわからない。
その部屋はもともと香港から招聘された、習源というコックの住居としてあてがわれた部屋の一つだったのである。彼が白雲楼の何代目のコックだったか知らないが、それまで家族連れで来る人もいたので、裏口に近い二室がコック部屋になっていた。習源さんは単身でやってきた。そして、使わない一室に仏像を置いて拝みはじめたのである。最初は線香くさいという苦情も出たが、習源さんは人柄もよく、それに線香は客のすくない午後三時ごろにあげるという話し合いで、店主も納得したということだ。
習源さんが来たのは、ぼくが小学校六年生のときだった。子供のころは、年次の記憶がはっきりしている。六年生といっても、卒業間際で、年はあらたまって昭和十一年となっていた。雪がよく降った年で、総理大臣が殺されたとか、いや、じつは生きていたんだ、といった物騒な話が、子供の耳にもはいっていたことをおぼえている。
「おい、白雲楼にけったいなおっさんが来てるで。へんな神さん祭ってな。……」
ぼくがきいた、習源さんについての最初の情報は、悪童仲間のそんな話であった。
へんな神さんというのが仏像であったが、いまだにその正体がぼくにはわからない。不動明王だったような気もするが、観音菩薩であったと言う人もいる。とにかくうす暗い部屋の奥に、それは安置されていて、習源さんや信者が礼拝するときのほかは、幕が垂らされていたのである。
白雲楼は広東料理の店であった。広州の郊外にある白雲山から名をとったのであろう。店主は趙という姓で、ぼくはその息子と仲が良く、ときどき遊びに行った。趙君は親分肌で、友人が家に来るのをよろこんだ。彼の母親は日本人で、病弱だったが、かんじの良い人であった。
息子の友達にも親切で、よくおやつを出してくれたので、ぼくたちは白雲楼の奥にある、趙君の住居へ行くのをたのしみにしていた。ぼくたちは、いつも白雲楼の裏口から出入りした。そのとき、かならず仏像を安置した部屋を横切らねばならなかった。部屋といったが、広い通路といってもよい場所であったのだ。
仏を拝むのは、習源さんのほか一人のインド人だけで、ぼくたちは信者と言っていたが、ほかの人たちはパンディットと呼んでいた。礼拝の方法は、日本ふうでも中国ふうでもない。妙な呻きに似た声で経文を唱えるのが、子供心にも異様なので、いつのまにかその場所がラマ寺と呼ばれるようになった。
中学にはいってからは、あまり趙君のところへ遊びに行かなくなった。趙君が神戸の中学の入試に落ちたので、母親の郷里である日本海沿岸の某市の中学にはいったからである。おやつがほしくても、遊ぶ相手がそこにいなくなったのだ。そのうちに、こちらもおやつをほしがるような年ではなくなってきた。夏休みで趙君が帰宅すると、たまに遊びに行き、ラマ寺の前を通ることもあったが、小学生時代ほどの好奇心はなくなっていた。
インド人信者パンディットは、年齢不詳であった。ひげは白いが、頭髪は黒い。年寄りにみえたり、ときには壮年のようにみえたりした。礼拝のために、あぐらをかいて坐っているときは、じつに小さくみえるのに、立ちあがると大きくみえた。夏になると上半身裸になって礼拝することがあり、筋骨逞しく、とても老人にはみえない。
筋骨といえば、コックの習源さんも、よく引緊った体格のもち主だった。いつも眉根を寄せて、ものを考えているふうで、いわば苦味走った好男子であったのだ。年は四十前後であろうか。来日当初は、日本語はまったくできなかった。趙君の父親とは広東語で話をしていたのである。
ことばといえば、インド人パンディットと習源さんとが、英語で意思を疎通させていたのが印象に深くのこっている。習源さんは香港で英語の学校に通っていたそうだ。白雲楼には、よく外国人が食事にきた。食事のあと、控えの部屋で客がお茶をのむとき、習源さんはときどき顔を出して、話し相手になったものだった。趙君の父親も香港出身だが、英語は片言しかできなかったのである。
パンディットは、まちでよく見かけた。たいていリヤカーを牽いているか、手押車を押している姿であった。彼は在留インド人の雑用をしていたそうだ。
買物を頼まれたり、物品の運搬、廃品の処理など、雑多な仕事があったらしい。ヒンドゥー教の儀式の小道具で、日本では手に入らないものを、彼は器用に作ることができた。たとえば、瞑想をたすける象徴的な幾何学図形から成るヤントラ図像などを、彼は手本もなしに描いたということである。
(後略)

『異人館周辺』文藝春秋 182P?185P

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