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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

染められた骨

概要

「染められた骨」

陳舜臣

   2
高木康雄と知り合って、照子は自分の人生が変るべきだと思った。翌朝、勤務先の神戸のモルマテ領事館のオフィスに出ても、彼女はそこの空気の濁りようを、いつもよりはっきりとかんじた。
領事バルボサはまだ出勤していない。昼すぎになることがしょっちゅうなのだ。中年ぶとりの書記のコスタは、十時半に出勤して、ずっとパイプの掃除をしていた。
領事館のおもな仕事は、神戸からモルマテ共和国に輸出する貨物について、送り状にサインをすることである。この領事インボイスほど不可解なものはないだろう。品名、数量、単価、総額などを、領事がチェックするというのだが、ベテランの商社マンが、そんな初歩的なミスを犯すはずはない。ところが、インボイスの形式がじつに複雑をきわめている。かんたんにすれば、なんということはないのに、わざと難かしいフォームをとって、しかもスペイン語で記入しなければならない。ちょっとした綴り字のミス一つでも、容赦なくつき返される。
本船出帆の三十六時間以前に、領事のサインをとらなければ、商社は十ドルのペナルティーを払わねばならない。ペナルティーだけですめばよいが、わるくすれば、船積みができなくなるおそれさえある。貿易業務の円滑な進行を、故意に妨害しているとしか思えない制度なのだ。
領事館に一週間も勤めているうちに、照子はそこのからくりがわかった。
難クセをつけようと思えば、いくらでもできる。船積みをいそぐ商社は、領事に難クセをつけられないように、ふだんからつけ届けをしておかねばならない。
つまり、この制度は領事の懐を肥やすために設けられたようなものである。
午前中にも、商社の人が何人か、領事インボイスをもってやってきた。
「領事イマセン!」
と、コスタはパイプ掃除の手を休めずに言った。
「何時にできますか?」
実直そうな小柄の中年男が、おそるおそるたずねた。こんな使い走りをしているのだから、下積み生活にくたびれた人間であろう。
「ワカラナイ」
コスタは三代の領事に仕え、日本語はかなり上手なのに、わざと奇妙なアクセントをつけて答えた。
「急ぐんです。明後日出帆の船に積まねば、LC(信用状)の期限が切れます」
「ソレナラ、四十八時間アリマスネ、イソギマセン」
「お願いします」
男は気の毒なほど、ペコペコと頭をさげる。
「ソノ箱ニ入レテ、オヒル三時ニ来ナサイ」
「三時には領事のサインがもらえますか?」
「ワカラナイネ」
「それじゃ、こっちが困るじゃありませんか」
さすがにむっとして、男はカウンターのはしをつかむようにして言った。声がすこし荒くなったようである。
「ナンデスカ!」コスタも声を急にはりあげて、「ワタシ、領事デハアリマセン。サインスル人、ワタシデナイ。アナタ、ナニ文句言ウデスカ!」
コスタの剣幕に、男は一とたまりもなく恐れ入って、
「すみません、よろしくお願いします」
と、また頭をさげた。
そこへ、ピンクのミニスカートの若いBGがはいってきた。彼女は慣れた手つきで書類をカウンターのうえにのせて、
「コスタさん、お願いね」
コスタはとたんに目尻をさげて書類をとりあげ、ざっと眼をとおした。
「ミステーク、アリマセン。三時ニ来テクダサイ」
「サンキュー!」
BGはにっこり笑って部屋から出た。
まだぐずぐずしていた先刻の男が、おずおずと、
「私のほうのインボイスも、ミスがないかどうか、みていただけませんか?」
と、書類をさし出した。
「ナンデスカ?」コスタは若いBG相手のときとはうってかわった険しい表情で、「置イテ帰リナサイ。三時ニ来テ、ミステークアレバ、コチラガ言イマス」
「でも、さっき、あの女のひとには……」
「アノヒト、ワタシト友ダチ、アナタ、友ダチトチガイマス。インボイス、見ルコト、デキマセン」
コスタはくるりと背をむけ、自分のデスクに戻って、またパイプをとりあげた。
照子はそっと席をはなれて、その男のそばへ行った。
「お宅は、モルマテヘの輸出は、これがはじめてですか?」
と、彼女は小さな声できいた。
「ええ、そうです」
男は救いをもとめるような眼を照子にむけて答えた。
「その書類、いま黙って置いて帰っても、明後日の船には間に合いませんわ」
「どうしてですか?」
「ミスがあって、返されるでしょう。やり直しになれば、サインは明日です。ミスは三つあっても、書類を返すときは、一つしか教えてくれません。そこがまちがってると。……そこだけ直しても、つぎはそこと……」
「ミスはないと思うんですが。……スペイン語もできて、コンシュラー・インボイスにも慣れている、よその会社の人に頼んで作った書類ですから」
「領事がミスにしようと思えば、いくらでもできますわ。字の間隔がひらきすぎだとか、つまりすぎだとか、コピーのカーボンが薄すぎるとか、なにかありますわ。値段が適正かどうかしらべると、一週間も留め置かれたこともありましたよ」
「では、いったい、どうすればいいんですか?」男は情けない声できいた。
「このインボイスの輸出総額はいくらですか?」
「二千五百ドルです」
「それなら、二千円ほどのケーキを買って来て、このビルの地下の喫茶店に預けておくんです」
男はきょとんとした顔をしていたが、しばらくすると、やっとわかったらしい。貢物がなければ、この関門は越えられないのである。
「はい、わかりました。会社に帰って、相談してきます」
「いいのよ」と、照子は言った。――「これからは、そうしなさい。こんどはあたしが口をきいてあげますから、書類を置いて行ってもいいわ」
「え?」
男の顔に喜色がうかんだ。
照子がバルボサに一とこと言えば、ちょっとしたミスがあっても、彼はサインするはずなのだ。どうせ二千五百ドルという小口のインボイスの餌では、それほど大きな魚は釣れないのだから。――
このような環境にいると、人間の心はたしかにスポイルされる。照子は唐招提寺の境内と高木康雄とを思い出した。
澄明なものを頭にうかべると、周囲の汚濁はますますその醜さをはっきりさせる。

『六甲山心中』中央公論社 50P〜55P

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