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兵庫ゆかりの文学

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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

金星台から

概要

「金星台から」

陳舜臣

神戸をみたいが一時間しか余裕がないというとき、どこへ行けばよいだろう?
人それぞれの性格によって好みもちがうだろうが、せっかく神戸まできたのだから、この町ぜんたいをながめてみたいものである。
四国や九州への船を待ち合わせる人は、船の出る中突堤に一〇三メートルのポートタワーがそびえているから、エレベーターでのぼれば、神戸を一望のもとにおさめることができる。
鉄やコンクリートの展望台では気分がでないとおっしゃる方は、諏訪山金星台あたりが手ごろであろう。
神戸の町は東西にほそ長いが、その中心に東から三ノ宮・元町・神戸と三つの国鉄の駅が連なっている。
三ノ宮からも、新幹線の神戸駅からも、諏訪山の金星台の下まで、自動車で十分ほどで行ける。麓から金星台の広場まで、五分もあればじゅうぶんだ。
金星台からの眺めは、けっして雄大ではない。あまりにも町に近く、甍が一枚一枚みえる。町の息吹きと人びとの生活のにおいが、とどいてくるのだ。金星台のうえの再度山ドライブ・ウェーのそばにも展望台があり、ビーナス・ブリッジという優雅な陸橋がかかっているが、すこし高いので、そこからの眺めでは、町の呼吸はすでにかんじられない。
金星台に立とう。――
真下が、神戸の中心部である。十二階の県庁の新庁舎が、まるで視野を遮るように建ち、その西がわにポートタワーが、脇仏のようにつっ立っている。それを中心に、あかるい町が海にむかって、ひろがっているのだ。
東海道線で横浜を通過しても、車窓からは海はみえない。ところが神戸は、たとえば西からはいって、舞子・須磨の浜のすぐそばを国鉄線路が通り、やがて林立する船のマストがみえ、神戸市を通りすぎるまで、南がわの窓は、ずっと海とつき合う。
町ぜんたいが、海にむかっている。これは町の雰囲気を、いかにもあかるく、そして開放的なものにしている。
神戸の町の性格をひと口でいえば、その海洋性のあかるさにある、といってよいだろう。

裏がえしていえば、陰翳の欠如であろうか。
六甲の山なみは、裳裾をひいて、海にくずれこんでいる。神戸の町はそのなだらかなスカートのうえにのっかかっているようで、地形的にも、なんとなくなまめいたところがある。だが、そのなまめかしさにしても、いたって開放的なのだ。
高みからながめたときにかんじるこうした印象は、神戸の町を理解するうえで重要なキイとなる。
神戸のもつすべてのものは、そこに源泉があるといってさしつかえないだろう。
金星台という名称は、明治七年にフランス人ジャンセンが、ここで金星を観測したことに由来する。それを記念する円柱形の碑が台上の広場に建っている。
金星観測記念碑のうしろがすこし高くなっているが、そこへ登ってみよう。
そこにもう一つ、記念碑がある。
「海軍営之碑」という。
神戸に幕府の海軍操練所がおかれたのは、文久三年(一八六三)であった。総管となったのが、軍艦奉行並の勝海舟である。オランダから購入した蒸気軍艦スンビン号あらため観光丸、それに黒竜丸などを練習艦として、海軍の人材を養成した。
碑文は勝海舟の筆で、日付は元治元年(一八六四)十月八日。その上部に「海軍営之碑」と横書きされた篆額は、「公爵徳川家達君之書」とあり、のちに刻んだものである。
碑文によれば――

文久三年四月二十三日、大君(十四代将軍家茂)が「火輪船」を駕して摂播海浜を巡覧し、神戸に至ったとき、その地形を相して、臣義邦(海舟)に命じて海軍営の基をつくらしめた。……

とある。
碑面の最後に「軍艦奉行安房守勝部義邦撰」と海舟の名が刻まれている。物部氏は栄光の古代武門である。(後略)


『日本随筆紀行第19巻 神戸/兵庫 ふり向けば港の灯り』1987年4月10日
作品社 22?25P

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