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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

崖門心中

概要

「崖門心中」

陳舜臣



昭和十一年七月、東京で中国人留学生の心中事件がおこった。中国の東北部に日本のつくったかいらい国家満洲国があった時代で、事件の男女留学生もそこから来たので、新聞には「満洲国留学生」となっていた。
――本国でもかかる心中事件は稀有のものとされているだけに、同国関係者を驚かせている。
記事の末尾に右のような説明がつけ加えられていた。
中国に心中事件は稀有というが、かならずしもそうではない。項羽と虞美人の最期も、心中の一種といえる。ただ儒教体制にあって、心中は反道徳的行為とみなされたため、記録されることがすくなかったのはたしかであろう。それだけに、心中をあらわす適当なことばがすくない。あまり熟したことばではないが、「殉情」(情に殉じる)がそれにやや近いのではないだろうか。
日本では心中讃美の傾向があるが、中国では、内心は別として、原則としてそれは恥ずべき醜行とされている。父母からうけた身体髪膚を、傷つけるだけでも不孝であるのに、命をすてるなど言語道断で、人間に非ずときびしく指弾されるのだ。死んでしまえば、それでもすこしは憐れんでもらえるだろうが、心中に失敗して生き残った者は、文字どおり生き恥をさらすことになる。
昭和十五年前後、神戸に移り住んだ洪若源という中国人は、そんな心中の片割れだという噂を立てられていた。誰が言い出したかわからない。そんな噂があることを、本人が知っているかどうかもわからなかった。
華僑社会で、ひどい噂を立てられるのは、たいてい大金持である。日本に来るまでの経歴がそもそもよくわからない。海外に出るのは、たいてい窮迫してのことだから、名門出身というのは稀有である。徒手空拳、日本にやってきて、みるみるうちに大富豪となったような人は、嫉視の対象にもなるので、
――故郷では乞食をしていた。
――さんざん不義理をして、故郷に居れなくなって日本にきたんだ。
といったことを言われる。ある著名な大富豪には、
――故郷で渡し舟の船頭をしていて、たまたま金塊を持って商品の仕入れに行く商人を乗せ、それを殺して死体を河に投げすて、自分は金塊を奪って逐電した。日本で商売に成功したのは、強奪した金塊というもとでがあったからだ。
という噂があった。そんな噂は嫉妬がつくりあげたものといってよい。だが、洪若源は金持ではない。回教寺院の近くの路地裏の長屋に、それも二階借りの住居であった。そのこは三十前後で、色は浅黒く、痩せてもいたので、とても金持ふうにはみえない。職業はペンキ屋である。船舶の塗装がおもな仕事であったらしい。
神戸港における船舶塗装は、明治の初期以来、広東系華僑の仕事となっていた。洋服の仕立や洋風の理髪など、日本の職人が熟練するまでは、外国人は香港や上海ですでにそれに慣れた中国人職人を連れてくるほかなかった。船舶塗装もそうである。もちろん日本人の船舶塗装業者も、けっこう多くなっているが、伝統のある中国人職人が依然腕をふるっていたのだ。洪若源は下請で、その親方は以前から神戸にいた広東人の職人であった。親方に仕事をもらって、おもに港で仕事をした。ときには、外国人の住む「異人館」のペンキ塗替えの仕事をすることもあったようだ。
洪若源は一本立ちのペンキ職人ではなく、親方の命令で働いている徒弟である。そんなわけで、彼は他人から嫉妬を受ける理由は、まったくないのである。「殉情」(心中)の前歴があるといった中傷は、まさに理由不明、そして出所不明といわねばならない。
(そういえば、美男子であることが、そねみを買ったのかもしれない)
私はそう思ったことがある。美男子というより、「好漢」と表現したほうがよいかもしれない。目はかがやいている。それは鋭い目と形容してよい。職業柄、よく日に焼けているが、顔もからだもよく緊っていた。仕事がすむと着換えるのであろう。町で見かける彼は、いつもこざっぱりしたようすであった。上等の服ではないが、清潔であった。
戦争の末期、私はやっと洪若源が他人に羨望されるものをもっていることを知った。それは美しい妻である。二十になったばかりの私には、まばゆいばかりの美貌であった。洪若源の妻はめったに外出しなかった。市場での買物は、洪若源が仕事の帰りにするのである。野菜や魚をぶらさげて帰る彼をよく見かけた。
(後略)

『異人館周辺』文藝春秋 56P?59P

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