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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

ぼくらは逃げた

概要

「ぼくらは逃げた」

陳舜臣

  1
顔を見ただけで、いや顔が見えないうちから、歩いて来るすがたを見ただけで、ぼくはそれが仲間であるかどうかを、見分けることができる。ぼくにとっては、この世の中には仲間と、そうでない人間の、二種類しかいない。
年齢からいえば、二十歳以上の人間は、どうしても仲間とはいえない。学歴は新制中学を出ただけの者に限られる。おなじ年でも高校卒というのは、すでにぼくらの世界の人間ではない。まして大学生などは、完全にあちらの人間なのだ。
仲間でない人間とのあいだには、底なしの溝がくろぐろと横たわっている。
ぼくと境遇の似た人間でも、その溝になにか橋でもかけて、むこうへ行こうとしたがっているやつは、やはり仲間とは思えない。中学を出て中小企業に勤め、骨身を惜しまず働き、なにか身に技術をつけようとしている、いわゆる模範店員というやつだ。いくら貧乏でも、こちら側の人間じゃない。
そうしてみると、ぼくらの仲間というのは、あんがいすくない。だから、歩いて来るすがただけで、すぐにわかるのだ。――歩いて来る仲間が、ぼく自身みたいなものである。
ぼくはそんなふうにして、緒方ミチコと知り合った。仲間である条件には、性別はないのである。
ぼくは十七で、ミチコは十六である。ぼくは八百屋の店員を半年前にやめてしまった。ミチコは中学を出てお手伝いさんをしていたが、二た月前にやめた。キャリアもよく似ている。
とにかく、二人とも、たがいに仲間だとはっきりわかったので、くっついたのである。
仲間以外の人間は、こんなくっつき方を、ふしぎに思うらしい。
――氏素性もわからないのに。
と言うのである。
じっさいに、ぼくらの仲間で、一と月以上も一しょに暮して、名前を呼び合っていたのに、おたがいに相手の苗字を知らなかったという例がある。しかし、苗字なんかは、人間の本質とあまり関係ないではないか。
むこう側の人間がくっつく場合は、仲人というのがいて、姓名年齢はもとより、家族関係、学歴、職歴、趣味にいたるまで、くわしくデータを提供している。
そんなデータが何になるかといいたい。だいたい、仲介者がいるのが気に入らない。くっつくべき相手かどうか、本人を見たとたんに、わからねばならないのだ。
ぼくは東京に出るまで、あちこち渡り歩いた。両親に早く死なれたからである。兄貴が一人いたが、別れ別れに親戚の家に預けられ、つぎからつぎへとタライまわしにされた。
神戸の中学を出て東京へ行ったが、ぼくにすれば、なるべく遠い土地へ行きたかったのである。
東京で八百屋に勤めたが、そのうちにグレだし、勤めをやめて新宿あたりで、仲間と一しょにうろうろしていた。けっこう、なんとか食っていけた。あまり技術の要らないかっぱらいなんかをよくやったものだ。
労務者になっていた兄貴が死んだのは、ついこのあいだである。工事現場の事故による死であった。弔慰金が出たが、親戚がよってたかって、ちょろまかしてしまった。
兄貴はどうしたわけか、兵庫の中央市場近辺の長屋を一軒うまく借りていた。
弟のぼくにのこされたのは、それだけであった。むろん何千円かの家賃を払わねば住めないのだが。
「ゼニはあるんかいな?」
と、親戚の一人が言った。いかにも軽蔑したような口ぶりだった。
「あるで」
と、ぼくは面倒臭そうに答えた。
「ほんまかいな?」
「ほんまや。そいでこの家に住む」
空襲を免れた戦前の建物で、六畳、四畳半の二た間と炊事場がついている。軒は傾き、壁は半ばくずれているが、家賃だけはべらぼうに安い。
ぼくに金がなければ、その借家の権利まで取りあげるつもりだったのだろう。
意地になって、ぼくは神戸にのこった。
(後略)

『六甲山心中』中央公論社 221P〜223P

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