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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

異人館周辺

概要

「異人館周辺」

陳舜臣

このあいだ、新神戸駅の近くで、「ふしぎなじいさん」と呼ばれる趙さんに会った。病院の帰りだというので、どこが悪いのかとたずねると、趙さんはただの検査だと答えた。それにしても、やつれが目立った。病気でないとすれば、年のせいであろうか。そういえば、趙さんに会うのは久しぶりであった。すくなくともこの三年は会ったおぼえがない。おなじ神戸に住む中国人同士でも、そんなことがあるのだ。
「ずいぶん長いあいだお会いしませんでしたね」
「そうでしょう。一年の半分はハワイにいますからね」
と、趙さんは答えた。
「道理でお見かけしないはずですね」
「神戸にいても、ハワイにいても、さびしいことはおんなじでね。……あんたのお父さんも、亡くなって五年になるかね?」
「六年です」
「友達がだんだん減ってきますわい」
趙さんはため息をついた。趙さんは私の父の友人であった。父と同じ世代の友人は、八十をすぎているのだから、もう何人も残っていない。
「これからお帰りですか?」
「ほかに行くところはありませんからね」
「じゃ、お送りしましょう。私もトーアロードのほうへ行きますから」
私はタクシーをとめた。
趙さんの家はトーアロードの西側の路地にある。そのあたりは華僑の住居が多い。とくに広東出身者が多いので、私たちは広東部落などと呼んでいる。トーアロードというのは正式の町名ではないが、古くからの通称である。片仮名の地名や愛称は、たいてい新しいものだが、このトーアロードは明治初年からで、百年の歴史はあるだろう。地名の起源さえ諸説紛々なのだ。ローマ字ではTORROADと書かれる。
私の家の近くに住んでいたエリオンというオランダの老人は、「鳥居ロード」説を唱えていた。トーアロードの北のつきあたりに、かつてお稲荷さんがあって、赤い鳥居がならんでいた道なので、はじめはTORIIROADと呼んでいたという。いつのまにか、最後の二つのIの字が脱落し、発音も変わってしまったそうだ。
そのエリオンさんも十年ほどまえ、八十近くで亡くなった。生涯独身だった人である。エリオンさんは、ミステリー作家でもあった駐日オランダ大使のヴァン・グーリク氏と親しく、いつか私に紹介しようと言っていた。だが、ヴァン・グーリク氏がさきに死に、エリオンさんもまもなくあとを追うように、この世を去った。
私はエリオンさんのことを思い出すと、いつも趙さんを連想する。死んだ人と生きている人を結びつけては悪い気もするが、趙さんも八十になるまでずっと独身なのだ。「ふしぎなじいさん」というニックネームは、いくつもの理由でつけられたのだが、その独身主義はおそらくいちばん重いのではあるまいか。
(おれは年寄りに知り合いが多いなァ。……)
車のなかで、私は内心苦笑した。老人は現役を退いて、たいていひまであり、いろんな話をきけるので、小説家である私にとっては、ありがたい取材の対象であった。仲良くした年寄りが、一人また一人と亡くなって行くのは、私にもさびしいことである。
むかしお稲荷さんがあったと想像される場所は、戦前、ホテルであった。スイスシャーレふうの、渋いかんじの建物は、建築史からみても貴重なものだったらしい。空襲のときも、その一画は焼け残った。ところが、戦後、進駐軍の将校宿舎となり、まもなく失火で焼失した。
 ――せっかく、空襲にも焼けなかったのに。……
と、私たちは口惜しがったものである。いちばん残念がっていたのは、そのトーア・ホテルの斜めむかいに住んでいたエブラハムさんであろう。エブラハムさんもエリオンさんとおなじ神戸生まれの外人だが、早くから日本に帰化して、「箙」という姓をつけていた。この箙さんも八十をすぎて、数年まえに亡くなった。ラグビー関係の人なら、この人の名を知っているだろう。イギリスで教育をうけた箙さんは、日本人にラグビーをコーチした草分けの人である。
トーア・ホテルが焼けたのは、私が結婚した年なのでよくおぼえているが、一九五〇年のことであった。いまは外人のクラブになっている。箙さんの話では、ホテルができたのは日露戦争の数年後であったという。それまでは松林で、お稲荷さんは箙さんの記憶にないが、ちょっとした池があり、在留外人はその池を、ハンギングマンズ・ポンドと呼んでいたそうだ。箙さんの生まれる前の話らしいが、その池のそばの松の木で、首を吊って死んだ人がいて、いつとはなしに池にそんな名前がつけられたのだ。
(後略)

『異人館周辺』文藝春秋 6P〜9P

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