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兵庫ゆかりの文学

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陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

地天泰

概要

「地天泰」

陳舜臣

易者が易者になっていたので、私はすくなからず驚いた。
この言い方は、解説を要するであろう。二つならんだ易者ということばの前者はニックネームであり、後者は職業名である。
山中君は小学生のころ、みんなから「易者」と呼ばれていた。彼の父親が易者であったからだ。それなら、父親の職業を継いだことになり、驚くにあたらないといわれるかもしれない。だが、仲の良かった私は、山中君が易者という仕事を、嫌い抜いていたことを知っているので、意外に思ったのである。
易者というニックネームは六年生になってからつけられた。それまで山中君は父親の職業をかくしていた。
――ぼくのお父さんは海軍や。
と、彼は言っていた。
――そいで、あいつとこのおっとん、いつも家におらへんのやな。
級友たちは、そんなふうに納得していた。
学区の関係で、その小学校には船員の子が多かった。船荷の積みおろしは、艀を使っていた時代で、艀を住居とする家庭もすくなくなかった。艀の子たちも、父親の職業を船乗りと言っていたようだ。
当時の子供の感覚では、ふつうの船乗りよりは、海軍のほうが格が上であった。
――おかしいぞ。海軍の子だったら、横須賀とか舞鶴のような軍港に住んでいるはずなのに。……
東京から転校してきた子が、東京弁でそんなことを言うのをきいたおぼえがあるから、一部では父親の職業詐称が疑われていたのであろう。だが、山中君はいかにも海軍の子というかんじであった。服装がどことなくしゃれていたし、顔立ちもりっぱであった。いまから思えば、顔立ちと海軍とはあまり関係はないが、当時の子供の目には、山中君は海軍らしい顔というかんじがしたのである。山中君以上に、彼の姉さんはりっぱな顔をしていた。
いま神戸の市役所のあるあたりは、むかし異人山と呼ばれたところで、子供の遊び場であった。山中君の家はその近くで、私たちはよく彼のところで顔や手足を洗ったものである。友人の家で勉強するという口実で外出するので、砂埃をかぶって帰宅してはまずい。
じつは異人山の近くに、蛇口をひねると水の出る公共の場所があった。荷物の運搬を牛や馬のひく車に頼っていた時代で、そこは牛馬のための水飲み場なのだ。
――馬が水を飲むとこで顔洗えるかい。
と、腕白たちは言った。だが、考えてみると、私たちは水を飲むのではなく、顔や手足を洗うだけなので、そこの水を使ってもよかった。それなのに、みんなが山中君のところへ行ったのは、山中君の姉さんの顔を見るためであったと思う。二つちがいの姉さんでまつげが長いのが印象的であった。
同級生のなかで、山中君の父が易者であることを、いちばん早く知ったのは、私であったかもしれない。
私の祖母は台湾から神戸に来て十年以上になるが、日本語がひとこともしゃべれなかった。なにごとも占いに頼る人で、南京町の彭さんにあやしげな占いをしてもらっていた。鶏の脚を使う鶏トというものらしいが、私はそれを見たことがない。彭さんも専門の占師ではなく、本業は料理屋のコックであったのだ。その彭さんの占いが、たてつづけに何回か外れたので、祖母はもっと権威のある占師をさがしていた。そして、熊内通に、たいそうえらい易者がいることを聞き出したのである。たしかな紹介者でもいなければ、なかなかみてもらえないということだった。私の父はおそらく仕方なしにであろうが、取引先に頼んで、その易者の承諾を得た。問題は彭さんとちがって、日本人の易者なので、祖母はことばがわからない。
「おまえ、ついて行け。社会勉強だ」
と、父は私に通訳を命じた。
祖母の妹が、台湾で入院したが、手術をすべきか否かをたずねたいというのである。そのていどのことであれば、子供の通訳で間に合うと考えたらしい。もともと父は占いをあまり信じていない。そんなことに、大人がかかわり合うのは、つまらないと思っていたのであろう。私が五年生から六年生に進級する春休みのことであった。
(後略)

『異人館周辺』文藝春秋 132P?135P

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