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  5. 同窓・司馬遼太郎

陳 舜臣

ちん しゅんしん陳 舜臣

  • 大正13~(1924~)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:神戸

作品名

同窓・司馬遼太郎

概要

「同窓・司馬遼太郎」

陳舜臣

大阪上本町八丁目、通称ウエハチにあった外国語学校は、なにやらあやしげな、というより、どこかおかしげなところのあった学校という気がする。
表通りからすこし入ったところに正門があることからして、人目を忍ぶようであり、その門を入ると右手に「烈士の碑」という石碑が立っているのもいわくありげだった。その碑はもともと軍事探偵や秘密工作員として大陸で死んだ卒業生を記念するために、建てられたものである。この学校には右翼壮士的な土壌があったのだ。かとおもえば、昭和初年の左翼運動はなやかだったころ、検挙のために一クラスほとんど全滅といったこともあったらしい。左翼前衛的な雰囲気も、かなり濃厚であった。
司馬遼太郎とは一期ちがいだが、ほとんど同時代に、私はこの混沌とした学校に学んだ。彼は蒙古語、私は印度語のクラスにいた。私が印度語をえらんだのは、あまり競争率の高いところを敬遠し、合格の可能性のありそうな科を狙ったのにすぎない。蒙古語もさして競争激烈ではなかった。彼もおそらく私と似たような動機で受験したのではあるまいか。

どうせ旧制高校を落ちてきたのだから、秀才面をしてもはじまらない。――そんな斜に構えたような気風が、この学校にあったようにおもう。
学生時代は粗野な少年であった、と司馬遼太郎はどこかに書いていたが、それでも彼は粗野という点では目立たない学生だった。粗暴なことにかけては、もっとひどいのがたくさんいたから、大阪育ちの彼は、そのジャンルで頭角をあらわすことはできなかった。
彼が目立ったのは、不本意であろうが、色の白さによってであった。なにせ蒙古語の学生といえば、めったに風呂に入らず、顔も洗わないというのが多かったので、そのなかにいると、色の白さは目立つ。
学生時代の司馬遼太郎といえば、色の白さが一ばん印象に残っている。
戦時下の学生生活は、息苦しさのみ強く、また学業半ばに軍隊に入ったのだから、大した収穫のあろうはずもない。.
京都で大学まわりの記者をしていたころ、考古学教室で蒙古文字をスラスラと読み、学者先生を感服させたのが、蒙古語を学んだ唯一のメリットだ、と彼は語ったことがある。しかし、ほかにもプラスになった面があるのではないか。英独仏など、いくら勉強しても底なし沼のような語学、あるいはアラビア語などのように、やたらに文法の難しい語学をやっておれば、ほかのことをする時間を奪われる。クラス十人ほどだから、一時間のうちに、なんべんも訳解の指名を受け、予習復習がたまったものではない。
その点、モンゴルの言語は、一年ほど学べば、一応マスターしたといってよく、そのうえ読まねばならぬ古典もないそうだ。
学生時代に、司馬遼太郎が図書館通いをして雑学にふけり、釣の本まで読み漁ることができたのは、蒙古語のやさしさも一因であろう。
ふうふういいながら、語尾変化をおぼえている司馬遼太郎像など、想像するだにけったいではないか。
蒙古語でよかった、というかんじである。

『司馬遼太郎全集月報10(第8巻月報)』文藝春秋 5?6P

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