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寿岳 文章

じゅがく ぶんしょう寿岳 文章

  • 明治33~平成4(1900~1992)
  • ジャンル: 英文学者,和紙研究家・随筆家
  • 出身:神戸市西区

作品名

杉原谷紀行

概要

中世以降、新しい紙名として登場した杉原の原産地は、播磨杉原の身贔屓をするわけではないが、段々調べてみると、どうも播磨の方が動かせぬ原産地らしい。何にしても一度実地調査をする必要があらうと、かねて新村先生も言はれてゐ、去年の夏も先生と一緒に杉原入村を計画したのであつたが、さしつかへて行けなかつた。それがことしの夏、支障なく実現されたのは、うぶすなのかみの冥護もありしにやと欣快に耐へぬ。心覚えのため、簡略に紀行を録しておく次第である。
杉原谷村は、現今の行政では兵庫県多可郡に属し、播磨、丹波、但馬の国境に近い細長い一村である。海抜千六米の千ケ峰が谷の奥に聳え、相当な山間部落であることは、陸地測量部の地図を見てもよくわかる。交通の便は、山陽線を加古川で播但鉄道に乗り換へ、鍛冶屋で下りるか、或は福知山線の谷川から播但鉄道を利用して鍛冶屋に出るか、の二途で、いづれにしても鍛冶屋からさきはバス又はハイヤーに拠るのほかはない。近年杉原谷が鹿の狩猟地として著聞し、冬季には東京方面からも猟天狗が飛来するやうになり、交通の便宜も存外にあるとは聞いてゐるものの、私の郷里淡河谷でさへかなり不便な土地だから、何にしてもよく調べておく必要がある。新村先生はかねて御存知の「アララギ」の歌人山口茂吉氏が、同村の出身であるところから、実に丹念な予備調査を行はれた。山口氏がまた入念篤実そのもののやうな人で、乗り物の便宜はもとより、宿泊、行程等についても、微に入り細を穿つた地図添附の書信を、先生のところへよこしてをられる。私は杉原谷の小学校長宮田正夫氏と去年から書信を往復し、縁辺や知人を辿つて杉原谷界隈の真言宗寺院とも連絡をつけ、入村の準備は全くなつた。
八月二日、晴である。朝七時二十二分京都発の省線急行に乗り、加古川廻りで行かうといふことに打ち合はせがしてあつたので、七時すぎ駅へ来てみると、珍しくも洋服の先生が、もうプラットフォームに入つて、颯爽と、しかしにこやかに歩き廻つてをられる。今年の夏は先生もすこぶる御達者なのが何よりうれしい。汗に苦しまされる夏の旅行を最も不得手とする私の方が、これでは先生の御世話になるかも知れぬと、大いに気を張つて乗車する。大阪で汽車に乗り換へ、鍛冶屋へついたのは十一時半過ぎであつた。加古川から西脇まで、少年の頃屡(原本はしかばねに婁)々私のゆききした道筋なので、これが加古川の下流、あれが書写山、あそこが青野ケ原、あの山の向ふが私の郷里です、などと先生に説明してゐるうちに、小さなガソリンカァ内のむんむんと暑い二時間が過ぎてゐた。記紀万葉などにも出てくるこの辺の地名は、或は先生の懐古の情をそそつたでもあらうか。
豫め手紙を出してあつたので、鍛冶屋駅のすぐ側の、天田の量興寺住職高田光明師が出迎へられる。去年の大旱魃にひきかへ、ことしは青々と茂つてゐる稲田の畦道づたひに、私たちはひとまづ量興寺におちつき、昼食のもてなしをうけ、「時鳥の落とし文」と云ふものを見せられなどして、午後二時、そこからハイヤで杉原谷に向かつた。右に左に南画風の山の聳立を見るが、街道も家なみもよく整ひ、どんな草深い山奥だらうとの予測は、全く裏ぎられる。ただ谷をのぼるにつれて、両側の山が近く迫り、美しい杉の林相が、いかにも杉原谷の感を如実にする。車行三十分足らずで、私たちは谷の中心地にある小学校に著き、村長の山口吉五郎氏、宮田校長、郷土誌の編纂を志される藤田貞雄訓導の出迎へをうけ、その一室でしばらく話し合つた。時折女教員の方が極めて慇懃に、目八分に茶をすすめられる。
(後略)

『兵庫県文学読本 近代篇』のじぎく文庫268?270P


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