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兵庫ゆかりの文学

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金子 兜太

かねこ とうた金子 兜太

  • 大正8~(1919~)
  • ジャンル: 俳人
  • 出身:埼玉県

作品名

前衛の息吹

概要

福島から郷里の秩父に帰って家族を実家に預け、単身で神戸に赴くと、しばらく本山町岡本の独身寮の一室で暮しました。そして、横の家族寮(鉄筋コンクリート四階建の一階三DK)が空くのを待って、家族を連れに秩父に戻って、ようやく落ち着いたのですが、東海道線の一日がかりの長旅がおもいだされます。この岡本には、波多野爽波の家もあって、後になって、そこで座談会をしたこともありました。

秋暑にてめんめんと牛が馬が躍る

これが神戸での第一作でしたが、秋暑き日の港神戸の街区は妙に白っぽく、空気が陽炎のように躍る感じでした。牛や馬がいたわけではないが、人間をはじめ街ゆくものが、その空気のなかでゆらめいていました。
私に「当時の関西」という小文があります。岡本から六甲山のケーブルカー駅に近い山腹に移って、都合四年四か月神戸に在住して、昭和三十三(一九五八)年二月、長崎に転勤したのですが、その間の俳人との付合いの様子を手短にスケッチしたものです。これに説明と自分の句を補いながら書き写しておきます。
「その神戸のころのものに、尼崎で作った十句がある」――そのうちから四句を抄記します。

少年一人秋浜に空気銃打込む
秋曇山なす錆び缶の顔鉄線の手等
首切る工場秋曇の水を運河に吐き
塩素禍の葭原自転車曲り置かれ

「作ったのは、たしか昭和二十九年で、神戸に定着した翌年だったと思うが、読むたびに、いまでも不思議に、当時の関西での俳句の交わりを思いだし、『新俳句懇話会』のことを思いだす。つぎつぎに、パノラマのように、同世代を中心に俳句作者の顔が浮ぶ。群像として、それらの顔が盛りあがり、通過してゆくわけだが、これは、同じころの作品でも、

白い人影はるばる田をゆく消えぬために

が永田耕衣一人と結びつき、

夜の餅海暗澹と窓を攻め

が、赤城さかえと結びついてしまうのとは違う。それとは対照的な現象なのだ」

――永田耕衣、赤城さかえが、それぞれこの句を誉めてくれた記憶が残っていたわけです。「白い人影」の句は金沢の「風」大会にゆく途中の車窓風景から得たものですが、その当時の心意の一端でもあります。赤城は東京在住でしたが、一度この家族寮に泊っていったことがありました。炬燵にささって、餅を焼いて食べながら夜更けまで話し込んだとき、港のほうからときどき船笛が聞こえてきて、海が窓にひしひしと迫る感じがあったのですが、この「暗澹」という語に、赤城は、朝鮮戦争休戦(昭和二十六年)につづき、その翌年の対日平和条約、日米安保発効と重なってゆく政治状勢への批評を見ていたようでした。
私の自身の発想はそれほどアクチュアルなものではなくて、季節感をも込めた漠たる現実感だったのですが、それでも、この句よりすこし前に、「原爆実験の犠牲者久保山の死」と前書を付けて、

電線ひらめく夜空久保山の死を刻む

とつくっていたし、その後の頃には、

屋上に洗濯の妻空母海に

もありました。日常生活にさす状況の影の暗部にこだわっていたのです。
尼崎の句の年、私の一人息子が近所の本山幼稚園に入園したのですが、ときどき行方不明になるのです。細君が探し歩くと、四階のAさんのところに座りこんでいる。この家族寮ではAさんのところだけにあったテレビ受像機が子供たちを引きつけていたわけで、テレビの珍しい頃でした。NHKのテレビ本放送開始がこの年の前年、民放は六か月遅れだったのですが、プロレス人気上昇のときでもありました。
(後略)

『金子兜太集第四巻』筑摩書房 P.134?136

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