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兵庫ゆかりの文学

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しらす まさこ白洲 正子

  • 明治43~平成10(1910~1998)
  • ジャンル: 随筆家
  • 出身:東京都麹町

作品名

西国巡礼

刊行年

1974

版元

駸々堂出版

概要

第二十五番 清水寺

三十三ヵ所のうち、清水寺は二つあるが、この方は丹波と播磨の境、兵庫県社町平木というところにある。といっても、大方の読者には意味をなさないであろうが、おおざっぱにいうと、篠山と三田の中間を、西へ入った山奥と思えばいい。近くには、丹波古窯で名高い立杭の部落もある。そういっただけで、どんなに辺鄙な山里か、想像がつくと思うが、車を降りてから山上の寺までは、さらに十八丁ほど歩かねばならない。
三田から、田舎道を、西へ向かって行くと、やがて左の方に清水の峰が見えて来る。堂々とした姿の山で、頂上へ登るのはたいへんだと思うが、実際に行ってみると、さほどではない。山へかかると、上から巡礼の団体がおりて来た。すれ違いざまに、「ようお参り……」と声をかけてくれる。町中とちがい、そういうところは親密感があっていいが、彼等のお喋りを聞くともなしに聞いていると、みな家庭内の愚痴話だ。やれ嫁がどうの、孫がどうしたのと、こぼしている。息子に嫁をもらい、小金を溜めてほっとしたとたん、歯車に故障を生じたものらしい。
「わしらが旅に出てれば、家が円くおさまるでのう」
そんな哀れなささやきも交じる。農村の家庭問題は、暮らしが楽になったことぐらいで、急に解決するわけでもあるまい。ヘルスセンターでは、おさまらなくなった人々が、そうして巡礼に出るのだろう。したがって、信仰は二の次だが、家庭が一時的にも円満になり、自分の寂しさもまぎれるなら、やはり観音様はなくてはならぬ存在にちがいない。

頂上へ達して、やれやれと思ったとたん、またしても高い石段がある。登りつめたところは、目がさめるようなもみじの林で、それをぬけると本堂の舞台へ出る。そこからの眺めは、聞きしにまさる美しさだ。幾重にも重なる山のかなたに、播磨灘が霞み、ところどころに名も知れぬ島々が浮かんでいる。札所の中では随一の景色であろう。だが、ここで感心するのはまだ早い。本坊へよると、印を押して下さった坊さんが、せっかく東京から来たのだから多宝塔へ案内しよう、といってくださる。多宝塔は、そこからはるか上の峰にあるので、少し面倒くさいと思ったが、坊さんのあとについて行くと、石段をいくつも登ったあげく、ようやく塔の下に辿りついた。この塔も、それから下の本堂もたびたびの火災に焼け、昭和のはじめに造られたというが、いいかげんな徳川期の建築よりしっかりしており、装飾過剰でないのが気持ちいい。
塔の内部は真暗で、怪しげな梯子を、手さぐりで登って行く。天井につくと、明りとりのような入口があって、そこの扉がきしみながら開かれたとたん、私は思わず息を呑んだ。想像もつかないような景色が目の前にあった。
「正面に見える海は、高砂の浦です。東は淡路島、西にぼんやり見えるのは小豆島でしょう。六甲の展望台が、あれあんな下の方に見えます。それから東の方に、かすかに見えるのは京都の東山ですね。どうです、すばらしい眺めでしょう」
と坊さんは自慢する。これではいくら自慢されても仕方がない。もっともこういう鳥瞰図なら、飛行機から眺められないこともないが、同じような感動が湧かないのはどういうわけだろう。たぶん、それは行動がともなわないからで、やはり自分の足で歩かないことには巡礼の有難味はない。
「煙が出ているところは、有馬温泉、その手前は、有馬富士」と、坊さんは指さしながら、左へ回って行く。塔の上は人ひとりしか乗れない幅で、危なっかしいが、この眺望の前では我慢するほかない。裏は真北に当って、若狭の山々が、夕日を受けて燃えあがり、西へ回ると、播州平野の逆光の中に、播磨富士が浮かび出る。有馬富士も、この山も、山とは呼べないほどの高さだが、こんなところからでも、すぐそれとわかるのは、やはり「富士」の名にふさわしい。

つるべ落としの秋の日に、山も海も空も、刻々姿を変え、光るかと思えばかげり、青ざめると見れば紅に染まって、やがて一様に夕靄の中にとけて行く。うっかりするとわれとわが身まで、とけてなくなりそうな気分である。
「たまに登りますが、こんなよく見える日は稀にしかありません。しかし、雪の時もいいですよ」
坊さんはそんなことをいいながら、馴れた足どりで梯子を降りて行く。が、こちらはそうは参らない、這いずるような恰好で、やっとのことで下につき、ほっとする。
多宝塔の裏手には、寺の名の起りである「清水」があり、叢をかきわけて見せて頂いたが、同じような清水は本堂のまわりにもたくさんあって、どれが本物であるかわからない。が、いずれも水量は豊富で、去年の夏の旱魃にも、麓の村は水が涸れて困ったのに、ここだけは常と変らず、山上まで水を貰いに来る始末だったという。人間にとって、欠かすことの出来ない水の信仰が、古代に起ったのは当然なことなので、その背後には切実な生活の裏付けがあるのだ。少なくとも、ここの村人に関するかぎり、「清水」の名は、私たちが耳にするのとは別のひびきを持っていることだろう。
(後略)

『西国巡礼』講談社(講談社文芸文庫) 123?126P

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