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兵庫ゆかりの文学

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たやま かたい田山 花袋

  • 明治4~昭和5(1871~1930)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:群馬県

作品名

続南船北馬

刊行年

1901

版元

博文館

概要

播摩名所

桜の花の咲きこぼれて居る本堂の前に跪拝して、その天満宮の松林を向うに出ると、麗かな春の日影はのどかに平蕪に照りわたつて、少し遠い山はすツかり霞の衣に包まれて了ふといふこの上ない好日和、田圃道のところどころには、若い女が若菜つむとて、をりをり翻へる紅い振袖の影も見える。自分等はうねうねと右に曲り左に曲る田畑道を、絲遊に引かるるやうにふらふらと石の宝殿の方へとたどつて行つたが、路傍の菜の花の黄い色やら、日影の少し霞んだ朧ろげな光やら、生ま暖い穏かな空気やらに催されて、何んだか土佐絵の中の人物にでもなつたやうな気が仕て為方が無かつた。半里ほど行くと、路は漸くその山の麓にかゝつて、その裾の処に春の日影を浴びた二三軒の田舎家がさもさものどかに並んで居るが、その角に一株の老桜があつて、それが今を盛に極て見事に咲き乱れて居る。石の宝殿へは其処から入るので、其処からだらだら坂を三町ほどのぼると、もうその神社の瓦甍が見える。正面には非常に高い石階があるが、自分等は左側から登つたから、只纔かの坂に逢つたに過ぎなかつた。赤毛布の榻の幾つとなく連なつている処を通り抜けて、猶一つ低い小石階をのぼり尽くすと、其処に一つの拝殿があつて、猶その奥に所謂石の宝殿なるものが聳えて居る。見れば成程これは奇観で、幅二丈五尺高さ三丈ばかりの大石が、丁度社殿を横に倒したやうに、屋根は西向、扉は天上、その上に二三種の稚松が面白く生じて居るといふ有様に作られてある。神代の遺物で、そしてこの神社の祭神の大己貴(おおむなみち)、少彦名(すくなひこな)の二神が一夜の中に石の御殿を造らうと思つて、工半ばにして夜が明けたから、そのまゝやめて了つたのだといふ口碑は荒誕取るに足らぬけれども、兎に角何人かが神を壮厳にする為めに、この一帯の山の竜山石といふ灰色軟質の岩山であるのを利用して、それを切抜いて造つたものに相違ない。且つこの宝殿は日本古彫物中最も古色を存したものと言はなければならぬ。ことに白雉年間には千石以上の社領を賜つて、摂社、末社と極めて壮厳を極めたといふ事が明かに歴史に残つて居るからには、いよいよ一訪の価値があると自分は思つた。で、自分はその石段を繞つて居る赤上色の濁水に杖を立てゝ見たが、中々深くして容易に其底を知る事が出来ない。
十分後には自分等は正面の階段の傍の茶店に腰を休めて、老婆の勧むる一杯の茶に咽喉を湿しながら、頻りにあたりの景色を眺めて居た。中々好い眺望で、ことに灰色の岩山に山桜の満開して居るのが妙に自分の心を惹いて、自分は頓と天然の懐の中に自分の精神を打込むのも知らなかつた。此処に自分の忘れられぬのは、自分等の憩んで居る長階の下に一つの大きな門があつて、その前後に桜と松とがおもしろく枝を交して居るが、此処は此附近の田舎の青年男女の絶好の見合の場所としてあるので、嫁になるべき少女は親戚の老女等に護られて下から其長い石階を上つて来る、と婿になるべき青年はその上の茶店に憩んで居て、互に恥しい一瞥を交すのが習慣になつて居るとの事である。そしてここで見合をしたものに不思議に、縁の出来ぬものの無いのは、皆な生石子(いきひしこ)様のお恵だと村の人々は心から信仰して居るといふ話だ。これを聞いて、自分は何とも云ひやうない面白さを感じたのである。この長い石階を登る田舎少女、それを見んとてこの茶店に憩ふ田舎青年、何と好い芝居の一幕ではないか。
山一つ隔つたところに観濤所といふ名所がある。これは石の宝殿を訪ふものの必ず一顧すべき処で、そこから、伏保、曾根、大塩等の村を隔てゝ、遙かに播摩灘の壮観を望み、西南には家島の群島を指点し、真に観濤の二字に負かずと名勝案内に記してあるが、自分等の行つた時には、あまり春の好い日和であつた為にて、霞が薄絹の被衣のやうに一面に眼界を蔽つて、更にその海の髣髴をだに認ることが出来なかつた。

観濤所を下りて、伊保村に入ると、丁度其処に御誂向の俥があつたので、高砂町までの約束で自分等は乗つた。加古印南両郡の間を貫流して居る荒川の流れを渡つて、海岸ともつかず平野ともつかぬ処を一里ほども行くと、もう高砂町の粉壁は手に取るやうに前に見えて、古風の家屋が行く行く路の両側に顕れて来る。町に入つて見ると、成程昔はさぞ繁昌したであらうと思はれる有様で、家屋の構造といひ、道路のつけ方といひ、立派な都会として更に恥かしい所は無い。自分等は、先づ第一に高砂の松へと志したが、それは町の尽頭(はずれ)の字東宮町にあるので、其処から海岸まではもう幾許もないのであつた。高砂神社は曾根の天満宮に比べると、流石に規模も大きく、構造もすぐれて居るが何うも名に高い高砂神社としては今少し立派であつて欲しいと自分は思つた。境内の広さは三千六百坪で正面に本社、東に尉嫗(じょうはは)神社、社背に九于の末社が並んで建てられてある。謡曲に名高い所謂高砂の相生の松は、尉嫗神社の前に蟠って居て、その枝葉は曾根の松と同じやうに二三十間の遠くにまで蔓延して居たけれども、この松は三代目であるから、その年代の古いのにも拘らず、その大きさに於ては曾根の松に太(はなはだし)く劣つて居るやうに感ぜられた。
一体今でこそ加古川に相生橋といふ長さ二間の大橋がかかつて、高砂尾上とは丸で別々になつて了つたが、昔は確かに一村落であつたに相違ない。そして今の尾上村にやゝその面影を残して居るやうな松林がこの海岸一面に連りわたつて居て、松の影は松の影と相重り、波の音は波の音と相雑つて、他に見る事の出来ないやうな荒涼寂莫たる趣を呈してゐたに相違ない。それにしてもその時の光景は何んなであつたらうと思ふと、自分は数百年の昔に帰つて、その広い広い松原を自分の眼前に浮ばせる事が出来る。其頃は加古川の流にも風情ある渡場があつて、高砂の松も尾上の松も曾根の松も乃至は手枕の松も、皆な其松原の中に埋れ果てゝゐたのであらう。高砂の宮なども周囲に小さな籬か何か結つて、二つ三つの注連(しめ)を其処に結びつけて、それで纔に詣づる人のしるしと為して置いたのであらう。其中に少男鹿(さおしか)のなく声、尾上の鐘の微かにひびく音、明かにてりわたる月の影、遙かに打寄する波の調、あゝ何たる立派な自然の大景であらう。それでこそ歌に詠み、詩に賦し、謡曲に謡つて、絶えず心ある人の感を惹いたのも無理ではないのだ、であるのに、今はそれがすつかり変つて、そんな好景があつたとは夢にも思ひ浮べる事が出来なくなつて仕舞つたではないか。

自分はさまざまの空想に耽りながら、高砂町を離れて尾上の村へと行つたが、ふととある松原の中に一基の古風の墓あるのを見出して立留つた。周囲には石垣も無ければ何も無く、只古風な五輪の塔がかけたまゝに、意味ありげに其処に立つて居るばかりであつた。自分は心に留つたまま怪んで友に聞くと、それは忘れたが由緒ある公卿が遷謫(せんてき)せられて死んだ墓で、僕等の子供の頃まで垣が立派に結つて有つたやうに覚えてゐるが、段々掃除する者もなくなつて、今ではこんな風になつたのであらうとの事であつた。自分の空想癖はいよいよ募つた。其墓の主が一人淋しく此広い広い松原を逍遥つた事があるであらうが、その時見渡す限り、松と浪と月ばかりで、更にその心を慰むるものはなかつたであらう。そして只一人浮世を離れ来て、幾百年をここに眠つた渠(かれ)は、果して安らかに瞑する事が出来たであらうか。否渠は寧ろこの寂しく静かなのを喜んだであらうと思つた。自分の眼前には此時そのさびしい昔の松原がことに分明(はっきり)浮んで……。
尾上の松も見た、手枕の松も見た。けれど自分の脳に深く刻み込んだのは、数百年前の播州の松原と、その中に今日まで纔かに形を存して残つて居る公卿の墓とで、自分は幾度これを詩にしようと思つたかも知れぬ。


『兵庫県文学読本 近代篇』のじぎく文庫 P253?257

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