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兵庫ゆかりの文学

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あべ ともじ阿部 知二

  • 明治36~昭和48(1903~1973)
  • ジャンル: 小説家・評論家・英文学者
  • 出身:岡山県英田郡美作町

作品名

概要

この市街の真中の、樹におおわれた低い岡の上に、白く塗られた城があつて、「白鷺」という名でよばれているが、たしかに、空に羽根をひろげた大きな白い鳥のような感じをあたえる。内部はからつぽなのだが、外から眺めたところでは、日本でもつとも巨大で壮麗な城だ。――いまから六百年ほど前、建武中興のころに、土地の豪族がこの岡の上に小さな砦をきずいたことから、その歴史がはじまつている。そののち、豊臣秀吉がまだ羽柴といつていた時に、中国地方を征圧するために、この近畿の西端の土地を、彼の根拠地としたことから、城の重大さがましてきたのだが、まだその時は天主閣は三層のものだつた。徳川の時代になつても、西南の勢力をここで監視し食止めるという意義は変らなかつたから、家康の女婿池田輝政が百万石の大名となつて来て、五層の天主閣、三つの小天主閣、その他の造営をした。それでほぼ、今日に見る城の形が出来上つた。
こんな風に歴史を書いてみても、君の興味をひくことではあるまい。しかし、この立派な古城も、はや老いてきて、その巨大な石垣の群の中には、ふくらみが見えはじめ、その建築はゆるみ朽ちはじめてきた。今日の日本の財政ではこれを防ぐ普請をすることもできぬから、いずれは地震とか嵐とかに傷つけられて行き、遠からずに崩れてしまうのでもあろうか――と、最近の新聞が嘆いていた。君もそれを惜しいことに思つてくれるだろう。だが、この城の下で育ち、いまも窓からそれを眺めているぼくには、あれは何か生命のようなものを有つてい、いつまでも街の空から消えることはないだろうというような、理窟をこえた迷信的な感情がわいてきたりするのだ――。いつたい、この城は、全国の他の多くの仲間が、自然力や人力で、つぎつぎに倒れて行つてしまつた後まで、ふしぎにも粘りづよく生き残つてきたものだ、とぼくは感心する。近い世になつても三つの危機があつた。その一つは、明治維新の時だ。そのとき、全国の各地方で、旧制打破の狂熱的な民衆の浪がたかまつて、多くの古刹や城が、うち毀しの運命に逢つた、ということは君も知つているとおもうが、その時にも、この街の人たちは天主閣はおろか、どの小さな櫓ひとつも破壊しようとはしなかつた。そうして城は、第一の革命の嵐を、かすり傷も負わずに通過してきた。しかし、明治の中頃に、一度、自然死のように崩れそうになつてきた。その時に、ある熱心な人たちが、犠牲的な奉仕をして、根本的な大修繕を加えたので、第二の危機もまぬがれることができた。だが、最後におそるべき運命がきた。いまから三年前、敗戦の直前のある夏の夜に、この街もB29の編隊の爆撃をうけ、城の南も東も西も北も、その足元まで火がふり注ぎ、街は大半焼けてしまつたが、どうしたということだろう、ただこの城の一廓だけが、すこしも焼けずに残つたのだ。空がいちめんに赤々と燃えあがつていた時、疾風と轟音とがうず巻く真中に、城は、その白い甍と壁とを火の色に染められながら、昼間にみるよりもけざやかに空にきらめきながら立つていたのだが、それは、妖しい生命をもち妖しい美をもつ一つの怪鳥、生霊、とでもいうべき姿だつた。

『城――田舎からの手紙――』昭和24年 東京創元社

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