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足立 巻一

あだち けんいち足立 巻一

  • 大正2~昭和60(1913~1985)
  • ジャンル: 詩人・小説家
  • 出身:東京・神田紺屋町

作品名

日が暮れてから道は始まる

概要

自立

わたしがどうにか自活できるようになったのは、四十六歳になってからである。母の死がきっかけになった。
生後三か月で父が急死し、以後不運が長くつづいたけれど、母がミシンを習い覚えて仕事が順調になると、豊かな仕送りを受けて学校を出ることができた。ほしい本も、母にねだれば何でも買ってもらえた。旅行も存分にした。
学校を卒業して商業学校の国語教師になり、一人前の給料をもらったけれど、なお毎月母の援助を受けた。同じ神戸市内に就職しながら、勉強できないという口実で勤務校の近くに下宿した。それに校友会の会計を任されたのがいけなかった。金銭感覚に欠けるため、公金と私金とをごっちゃにして帳簿に穴をあけ、そのたびに母から金をせびって埋めなければならなかった。
それから兵役にとられ、戦後は新聞社に勤めたが、それも母と戦争中に結婚した妻とが実生活を支えてくれた。金使いが荒い上によく酒を飲んだので、新聞社の給料は半月分の生活費にも足りなかった。あるときはもらったばかりの月給袋を、映画を見ていてまるまるスラれたこともある。すべては母と洋裁のできる妻とのミシン仕事によって補われた。
そんな次第だったので、自分は金にはまったく縁がないのだ、一生自活はできないのだ、と思いこんでいた。そのことは母も妻も覚悟していたらしく、三人の子ができると、その学資は自分たちがつくると言っていた。わたしもまたそれをアテにしていた。
ところが昭和三十四年五月二日、その母が突然に脳内出血で死んだ。七十四歳。わたしは声をあげて泣いた。
(後略)

『日が暮れてから道は始まる』編集工房ノア P.11
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スプリング ハズ
(中略)
わたしは学校を出ると兵庫県立第二神戸商業(現長田商高)の国語教師となった。昭和十三年、二十五歳。そこは神戸三中(現長田高校)の校舎に設けられた夜間商業だった。入学資格は高小卒で年を食った生徒も少なくない。最上級の四年の教室ではすぐにナメられた。騒がしいし、講義にヤジを飛ばすのもいる。わたしは一人を教壇に立たせ、激しく殴って一同を見渡し「文句があるやつは束になってかかって来い!」とどなった。
それ以来、教室は静かになったけれど、わたしには悔いが残った。中学の恩師池部宗七先生はただ一度生徒を叩いたことを身も世もないほど嘆かれた。
吾子よ吾子よ汝を手打ちたる手のひらのひびきを堪えて野を歩みをり
そのときの悲傷連作の一首だが、わたしはそれを思い浮かべた。そののち一度も人を殴ったことがない。軍隊では下士官になったけれど、手をかけなかった。殴れない性分でもあったのだ。
(後略)

『日が暮れてから道は始まる』編集工房ノア 36P
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昭三や昭三郎

神戸市立第一神港商業(現神港高校)は戦前野球の強いことでよく知られ、夏の全国中等学校野球大会で優勝したこともある。
この学校にわたしは昭和十七年四月から、二度目の徴兵をはさんで二十年十二月まで勤めた。作家の陳舜臣はわたしの着任の前年に卒業した。「もう一、二年卒業が遅れていたら、きみに一生頭が上がらんところやった。先生といわんならん」。陳さんは会うごとによくそんな冗談をいって笑った。
わたしが赴任したときは、二年生の担任だった。そして彼らが三年に進級したときも持ち上がった。ただ、その翌年には進学希望の五年生を受け持たされ、勤労動員で工場に引率していった初日、わたしにも二度目の徴兵令状が来た。
そんなわけで、二・三年を受け持った彼らとは特別に親しく、いまでもほぼ全員の名をおぼえている。予科練、陸軍航空少年兵、少年戦車兵などの割り当てが次々に来、応募を生徒たちにすすめなければならなかったのは実につらかった。何人かが少年兵となって出陣したが、ありがたいことにはひとりの戦死者、事故者も出さず、敗戦とともに全員が帰って来てくれた。また、少年兵にならなかった者も全員が勤労動員で狩り出され、航空機工場で空襲の危険にさらされどおしだった。
そういう共通体験のためか、彼らはいまも団結が強くてクラス会には大勢が集まる。
先日、彼らのひとりから電話がかかってきた。「先生、うまい中華料理食べながらダベりましょうや」。今回招く旧教師はわたしひとりだけで、手近な仲間に電話するという。
その日はひどい雨ふりだった。せいぜい十人ぐらいが一卓を囲むのだろうと思い、時刻ぎりぎりに高級ホテル内の中華料理店へ出かけた。ところが三十人ほども集まり、イスが並べられ、わたしをまんなかに座らせた。ふと上を見ると、「平和賞受賞・古稀祝賀……」と横幕が張られている。びっくりした。
やがてわたしがあいさつをのべる段になった。「ことし満七十二歳で、古稀は二年前にすんでいます。二歳も若返らせてくれてありがとう!」。歓声が湧いた。彼らには昭三や昭三郎という名が何人かいる。ごく少数の早生まれを除き、昭和三年の生まれなのだ。五十八歳、みんないいオヤジばかりである。
その席で一番はずんだのは、高射砲陣地構築の話だった。神戸市中央区の高台大倉山公園に昭和十八年高射砲陣地を急造することになり、生徒も軍命令で勤労奉仕に狩り出された。軍人の監督で地面を掘りおこし、その土をモッコで運ぶ。その土はおそろしく固かった。
昼食の時間となる。軍人がひとり一個ずつアンマキを配る。アンをメリケン粉で巻いて焼いたものだが、生徒たちはそんな甘味品を久しく食べたことがなかった。わたしたち教師も同じ。あるところにはあるものだと怒りを覚えた。それを生徒たちは唯一の喜びとして働き、アンマキに陶然と味なめずりした。なかには母親に食べさせるのだと大切に持ち帰った生徒もいた。ところが軍人の古手の教師は特権であるかのようにアンマキを四本も五本もせしめた。
その日から四十二年が過ぎたのに、いま昭三や昭三郎はあのアンマキの甘さを語りあい、教練教師の卑しさを罵倒してやめないのであった。

『日が暮れてから道は始まる』編集工房ノア 79P

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