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足立 巻一

あだち けんいち足立 巻一

  • 大正2~昭和60(1913~1985)
  • ジャンル: 詩人・小説家
  • 出身:東京・神田紺屋町

作品名

播磨の古法華山

概要

山中の三尊仏
古法華山の石仏をはじめてたずねたときの、ふしぎな感動を忘れがたい。三尊の顔の欠けた痕さえも強烈な印象を残し、それはいまなお眼底にある。
そこは加西市西長町の山のなかである。三方から参詣道がついているが、わたしがとったのは東北からはいる一般の道だった。その日、法道仙人が開いたという法華山一乗寺をおとずれ、その帰りに自動車でいったのだが、道は善防中学校の西側から赤松の多い雑木林のなかにはいり、しばらくして切り通しに出、それを抜けると山にかこまれた窪地にお堂と庫裡らしいものが見えた。それが異様な光景だった。以前はお参りの人が多いということだったが、いまはまったく人通りが絶えていた。そして、こんな山のなかにぽつんと一軒だけ小さな寺があるのが、いささか奇怪であった。
お堂のすぐ南側に真新しい収蔵庫があり、鍵がかかっていた。庫裡らしい建物で案内を乞うと中年の管理人があらわれ、扉をあけてくれた。
思わず息を呑んだ。午後を大分まわったやわらかな光線がさしこんだ瞬間、陽刻した三尊、それも欠けた顔が眼を射たのである。それとも、まず印象に刻まれたのは行基葺の石の屋根だったかもしれない。入母屋造りで、瓦が一枚一枚刻み出されている。そこに強い迫力と量感とがあった。
管理人にもらった案内書によると、三尊像を浮き彫りにした板石は、一〇二センチに七二センチ、厚さ二〇?二一センチだという。石は凝灰岩で、この付近で採掘される長石と同質だともいう。彫りかたの肉は厚い。中尊は高さ約四六センチ、椅子に腰をかけ、両脇侍はやや腰をひねって立っている。
火災に遭い、また護摩を焚いたためらしく石面は黒くすすけている。三尊とも丸い光背を負い、両脇侍の頭上には三重の宝塔が彫られている。その宝塔はほとんど原形が残っていて、ノミのあとが美しい。その中間には天蓋が刻まれていたというが、剥落がひどくてよくわからない。
下方に目をこらすと、両脇侍は蓮座に立ち、それを獅子が支えている。中尊の下方には香炉がおかれているが、それらの細部の構成が緊密で造形が見事である。法隆寺の壁画を連想させる。
しかし、それよりもわたしの心を圧したのは石の屋根である。もともと三尊仏は石造の厨子にはいっていたらしいが、石の壁がなくなって屋根だけ残った。正面一二二センチ、側面八四センチ、高さ五〇センチ内外だという。屋根瓦を彫りあらわしたノミのあとは丹念で力強い。もとは鴟尾があったというが、これだけで一つのすぐれた石彫になっている。


在野碩学の手記
この石仏は昭和三十年、甲陽史学会の田岡香逸氏らの調査によってはじめて世に知らされ、白鳳の優品であることが明らかにされた。そして同年奈良国立博物館で保存され、三十六年重文に指定された。修理も終わり、現地に収蔵庫が建てられ、石仏がここに戻ったのは昭和四十六年四月であったという。
わたしはそういうあらましを案内書で知ったのであるが、のちに『甲陽史学会研究報告第二・播磨古法華山石仏と繁昌天神森石仏』を一読して上等の文学を読んだと同じような感銘をおぼえた。それは綿密な学術調査報告であり、わたしが現地でもらった案内書もその抜粋であったが、それとともになかなか感動深い人間記録であった。
甲陽史学会といっても西宮市在住の在野の碩学田岡香逸氏と甲陽学園教員高井悌三郎・同宮川秀一両氏との三人だけの会である。三氏はこの石仏を調査して学界にはじめて紹介されただけでなく、奈良国立博物館へ搬出して保存・修理することにも努力された。
報告書の執筆者は三氏連名になっているが、田岡氏の「あとがき」で明らかにされているように高井氏個人の労作である。それが連名になったのは、田岡氏らが辞退したにもかかわらず、高井氏は終始二氏の協力に負うものと主張して譲られなかったからだという。すがすがしい。
その報告の「発見のいきさつ」と田岡氏の「あとがき」とによると、三氏は昭和三十年正月早々に一乗寺の調査をおこない、六日午後、帰りに坂本の古家実三氏をたずねたところ、北方四キロ足らずの山中に古い石仏のあることを聞かされたという。
古家氏は戦前に内地はもとより朝鮮・中国にまで古書探索の行脚をした古書籍商であり郷土史家であり、戦後は加西市坂本町の郷里で郷土史の研究に打ちこんでいた。
そのとき、古家氏はもう夕方近いことでもあり、他日にあらためて案内しようといったが、特にお願いして石仏をたずねることにした。しかし、それも石仏に期待したわけでなく、古法華という地名に惹かれて踏査したいと思ったと、田岡氏は書いている。
出発したのは午後三時で、猫尾から北へと山道を登る。「腰までかくれる枯草に道はとだえがちになり、枯葉のしいた坂道はともすると滑り、登行容易でなかった。先頭を行く古家さんは、私たちをおいて、とっとと登って行かれ、とても六十五歳とは思えぬ元気さであった」とある。
峠にやっとたどりつくと、満目すべて荒涼とした冬景色で、そのなかに木立ちに囲まれた小さな観音堂を見る。陽はすでに西に傾いている。古家氏は急がぬと暗くなるといって開扉の準備をする。それを待つ間、田岡氏は期待を裏切られてがっかりし、タバコに火をつけた。そのとき石造屋蓋を見つける。高井氏も同時だった。かわす言葉もなかったという。そのころ、屋蓋は石仏から離れ、堂の前にころがしてあったらしい。(後略)

(『石の星座』1983年4月 編集工房ノア 所収)
『日本随筆紀行第19巻 神戸/兵庫 ふり向けば港の灯り』作品社 158?161P
 

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