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兵庫ゆかりの文学

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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

星を売る店

刊行年

1926

版元

金星堂

概要

日が山の端に隠れると、港の街には清らかな夕べがやってきた。私は、ワイシャツを取り変え、先日買ったすみれ色のバウを結んで外へ出た。
青々と繁ったプラタナスがフィルムの両はしの孔のようにならんでいる山本通りに差しかかると、海の方から、夕凪時にはめずらしく涼しい風が吹き上げてくる。教会の隣りのテニスコートでは、グリーンやピンクの子供らがバネ仕掛の人形のように縄飛びしている。樅の梢ごしに見える蔦をからませたヴェランダからはピアノのワルツが洩れてくる。「そうだ」と気がついて、私は右ポケットに手を入れ、「もういっぺん練習してみよう」と、指先をすばやく働かして、「ABC」の紙箱の中から、巻タバコを一本抜き出そうとした。
Tという男が、いったいどこで覚えたのか、ポケットに入れた紙箱の中から寸秒のあいだにタバコを抜き取る。先日私が湊川新開地の入口でスターを二箇買って、その一つをかれに手渡した時、奴さん、もうその中の一本を口に咥えている! かれのポケットをしらべてみたが、たったいま入れられた箱があるばかし。しかもまさしく一本不足していて、錫紙は元のようにたたんであった。「こりゃカータ氏以上だ。ここへ加入して月給を貰ったらどうだ?」と私は、米国魔術家の演技がかかっている聚楽館の玄関を指した。今少し習練をつめば、Tはまだ買わぬうちに店先の品をポケットに納めているかも知れない。ところで先生、「奇術すなわち練習なり」とか何とか云って、再びポケットに手を入れたと思ったら、さらに一本、蝋びきの吸口をつけてまで取り出した。
私だっていくらか技術は覚えた。親指と薬ゆびが箱の両側をおさえ、中指が底を突き上げると同時に親ゆびがハネ上ってふたをあける。人差指を手つだわせて錫紙をめくって、シガレットの端をつまむ。しかしこれだけにも相当の暇がかかる。箱のふちはこわれるし、錫紙はめちゃくちゃになる。「でもこのあんばいなら」と私は抜き出した金口タバコを胸ポケットに入れて、さらに右のかくしに手を突っこんだ。こんどは暇取った上に、取り出したタバコはよじれていた。さらに試みた。もうてんでダメだ。……トアホテルの下に出ている。
これじゃタバコはみんな駄目になってしまうと気がついて、私は無難な一本に火をつけると、かどを曲って、広い坂路を下り出した。理髪館や、花屋や、教会や、小ホテルや、仕立屋や、浮世絵と刺繍を出した店や、女帽子店やが両がわにならんで、下方から玉子色のハドスンがリズミカルな音を立てて登ってくる。商館帰りのアルパカ服がやってくる。白い麻服にでっぷりした躯をつつんで、上等の葉巻の香を残してゆくヘルメットの老紳士があり、水兵服の片手をつり上げて他方の手でスカートをからげてせっせと帰途を急ぐ奥さんもある。チューインガムを噛みながら、映画の話をして行きすぎる半ズボンの連れもあり、青い布を頭に巻いたインド人もその中にまじっている。――坂下には、自動車や電車の横がおや群衆やがごたごたもつれ合って、国々の色彩が交錯した海港のたそがれ模様が織り出されている。その上方、坂の中途から真正面の位置に、倉庫? それとも建築中のビルディングか、何やら長方形と三角形のつみ重なりが見えて、そこへ山の合間から射しているらしい夕陽が桃色に当っている。いずこも青ばんでいる景色の中で、視線正面の一廓だけがキネオラマの舞台のように浮き出し、幾何学的模様に見える形と影の向うに、赤、黄、青の船体とエントツがひっかかっている。
「ここはキュービズムに描けるぞ」と思いながら坂を下っていたが、すぐ右方に、妙にきらきらした飾窓があったので、近づいて行った。
蝶々のような婦人用の日傘が、ガラスの向うに花壇みたいに組合せてあった。これらにガスの光が水のように流れて、そこだけを、街上の夕方の光とはまるで異った、ちょうど水族館の窓に似た別世界に仕立てている。しかしその前まで行かぬうちに、私の眼は別なものをみとめた。青っぽいショーウィンドウから、二、三軒手前の、チャイナクォーターの小路の向うに黒だかりがあった。私はその方へ歩をまげた。
てん足に紅いしゅすの沓をはいた娘さんや、潮風に焼けたひたいの下に緑色のガラスのような眼を光らせたセイラーや、はだしになった子供らが、レンガ建の倉庫の下を半円に取り巻いている。鉄の扉の前に黄いろのよごれた服を着て、赤い毛糸の玉がついた帽子をのっけた華人があぐらをかいて、色のはげた赤毛布の上に皿を三つならべていた。
「一二三!」と声をかけて、伏せてある皿をのけると、下には黒いつぶが数箇ずつおいてある。「ほいッ!」とつぶをひとまとめに皿の下に入れて、他の皿も同様に左右に伏せた。一二三でまんなかの皿をのけると、そこは何にもなく、ヤッと左右の皿を取ると、つぶはちゃんと四箇ずつに分れて現われた。かれはさらに金だらいを取り上げてカンカンと叩いて、かたわらに何かをおおうていた更紗を除けた。そこには壷があって、その中から引き出したのが蛇の子である。太さはエンピツくらい。この蛇を右手につかんで、生きているということが見物に示された。きゅッ! 蛇が啼いたが、これは懐中かどこかでそんな笛を鳴らせたのであろう。かれはその次に、自身の鼻の孔へ蛇の頭を突っこんだ。蛇は次第におしこまれて、こんどはその頭部が、かれの喉の奥からつまみ出された。つまり鼻孔から口元まで蛇が通されたことになる。鼻の外に余ってぴんこぴんこしている尾は、ひょいと耳たぶへひっかけられた。かれは帽子を取って前に差し出した。へんなふくみ声で、「イノチガケ、イノチガケ」と寄金を促がした。
「おい!」
と肩をおされた。ふり返ると、派手な桃色の縞シャツを着た男が立っていた。
(後略)

『稲垣足穂全集 第2巻』筑摩書房 70?73P

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