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兵庫ゆかりの文学

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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

明石

概要

光源氏の趾は、舊明石の西南隅だと憶えておけばよい。ステーション前から林崎行バスに乗つて、タルヤ町はづれ、一番丁で降りる。見当をつけて、ブラブラ歩いて行つても知れてゐる。けれどもおすすめしたいのは、駅前を南にくだつて、中崎遊園地へは渡らずに、錦江橋の手前から西へ、堀割ぞひに歩を運んで、波止崎西岸の高燈籠の下に出て、ここから、月山、岩屋神社をへて行かれたいことである。そこには、播磨路の港の空気がたゆたうてゐる。青い霧の下りてゐる夜、沖に啼く千鳥の声は聞かなかつたが、港にはひつた千石船の赤い灯が、花のやうに水面にこぼれてゐるのを、私は橋の上から見たことがあつた。
狭い納戸で姉弟は
やがて船からかへり来る
父を待つ間の手すさびに
鶴を折るとて白紙を
さくさく切ればちやらちやらと
剪刀についた鈴が鳴る (芳水詩集)
――そんな眸毛の長いおとどひも、まだその頃は見かけられた。
いま千石船と云つたが、明石港にそんな大船ははひらぬ。二百石づみである。永井荷風氏は、この界隈についてかいてゐる。「……再び船着場を散歩す。岸には荷物持ちたる旅客多く蹲踞し弁当の飯食ひつつ淡路に通ふ小蒸汽の解纜するを待てり。水を隔る娼家の裏窓より娼女等船の出入りするを見る。景物情趣に富む。余はわけもなく竹久夢二の素描画を想起す」去年の六月初九、明石もけふかあすかといふときである。諸君はこの情景を見て、さらに無量光寺辺りまで足を運び、明石川尻に出てみると、対岸淡路島の形がだいぶ変つてゐるのに気づくであらう。私は絵島をくつつけたヱハガキ式の淡路を好まない。神代ながらの島山は、東方垂水辺りの高台からの展望をのけては、江崎の燈台以西のすがたによつてこそ感じられるので、そこはまた五色浜がある所に当る。高山右近といへば、私には、聖母の画像がかかつてゐる城中の広間の床にひれ伏して、祈祷(原本は示に寿の旧字体)をこらしてゐる直衣の偉丈夫が連想されるが、この背景をなして大きく開かれた窓にも、いま云ふ淡路の西半部が見えてゐたことであらう。
明石川から西へ、林崎、ふじえ、この先が旧象の骨がときどき出る屏風ケ浦になる。この北寄り二キロに小笠原忠真の頃からの明石本駅があつた。藤江につづく江井ヶ島には、酒造家の白かべが多い。阪神間のみかげにならつて、西灘と称せられる。それから、魚住、別府、……左側が懸崖になつてゐる海べの丘の上り下り……紅椿が咲き、網が干してあり、蠣ガラが光り、いづこにもたこ壺が並んでゐる。右手の畠がなたねの花ざかりならば、頭上から降りこぼれてくるヒバリの唄があらうし、編笠のへんろさんにも出くわすであらう。

『兵庫県文学読本 近代篇』のじぎく文庫 280?282P




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海波洋々、マラルメが牧神の午後の一詩を想起せしむ。江湾一帯の風光、古来人の絶賞するところに背かず。――永井荷風・罹災日録

第一章 赤い石

いつか映画の紹介に「鳶の輪」というのがあった。瀬戸内海沿岸を背景にしたストーリだというので、成程! と思った。交通機関や工場が増えて、トンビの数はうんと減じた。
然し私が明石へ移った頃、朝に眼がさめて何を聴いたかというと、沖を行く漁業巡航船の睡たげなひびき以外は、ぴいひょろぴいひょろと屋根の上方で吹かれている、とぼけた笛の音だ。夏には表は蜻蛉だらけになったし、夕方になるとあちらこちらから蝙蝠が飛び出した。「あれは鼠の出世したものや、あんなもの取るもんでない」と祖母にたしなめられたことを、私は憶えている。戸外には下駄の音もしない。みんなは藁草履をひっかけていた。それに、鼻緒に色染めの紙が巻きつけてある子供用の草履には、後半部がちびィていたから、跣と同様である。でも足うらの黒い者も、座敷がよごれるという小言も別に聴かなかった。私の姉が、私への最初の明石紹介は、次のような言葉であった。「お天気の日ならどこでもハダシで歩けるんやし」――風化した花崗岩の細片から成る道路には雲の影さえめったに落ちていない。高い所を行き交うている天然グライダーの投影が、時々横切るだけである。トンビに油揚を取られる話は、ここでは事実であった。
町の西方を海に注いでいる川に沿って、東北へ十二、三キロ、伊川谷村前開に、藤原鎌足に縁故のある古刹がある。私は、もう三十歳をすぎた頃、初めてこの太山寺へ出かけ、背後の丘上に立って、やってきた方を振り返った。
明石川にきざまれた洪積層の台地には、段丘が発達している。ちょっと見ると敷き伸べた緑色のびろうどであるが、それには、黄・樺・灰色・褪紅、いろいろあって、このじゅうたんが段々を作って次第に低まり、ついに横に引いた瑠璃色のリボンである海に接している所……くろずんだ松木立の中にチョークの二点としてお城の櫓がおかれている辺り……さすが「前開」の名に背かない展望であったが、同時に、我が住む土地の、まるでガラス粉をぶち撒いたかのような眩しさを、私はいまさらに知った。岡本の里に谷崎潤一郎をたずねて、「そんなら塩屋、それとも舞子辺りに住まわれたらどうか」と口に出して、「いや、あの辺は明るすぎて、とても――」と言下に退けられたことを思い合わした。宇野浩二の短篇にも、阪神間の風光を述べて、「どこを見ても白チョークをでも塗ったような道」とあった。――「どうもあの辺は睡いような景色だね」いつか東京の友人が洩した。
当時、「陸蒸気」(汽車)「天保銭」(老人)などという言葉が使われ、長火鉢の抽斗に見つけた孔明き銭は、まだ近所の駄菓子屋では通用した。進洋流三段早打式の空砲を放って、ころり(コレラ)を追払ったけはいも残っていた。斬髪令が布かれて四十年近くになっていたが、漁師町の年寄連の中には埃まみれの、見窄らしいチョン髷が見つかった。そうでない連中にも、上りかまちに腰をおろし、「髪受け」を手にしながら頭を刈ってもらった、いわゆる髪結床の匂いが残っていた。裏のいな湯は文化五年に漁師らの足洗場として設けられて、明治二十一年までは男女混浴だったそうであるが、其頃の笑い話も、子供には何のことだか見当付けられないままに、まだ数年前のことを話しているかのように受取られたものだ。
ステーション近くにさえ田圃と稲塚があって、プラットフォームでは四季の西洋草花が栽培されていたので、日曜の朝を待ちかねて、漁師町の方から花々を観賞するために、老人は小学初年級の孫をさそったのである。事件というのは、出崎で海豚に当った人が、首だけを出して砂の中にいけてあるとか、大亀が上って、これに酒を一升飲ませてから海へ帰らせたとか……これらもめったにないことだ。  
(後略)

『稲垣足穂全集 第8巻』筑摩書房 340?342P


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