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兵庫ゆかりの文学

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稲垣 足穂

いながき たるほ稲垣 足穂

  • 明治33~昭和52(1900~1977)
  • ジャンル: 小説家
  • 出身:大阪

作品名

夢野

概要

秋晴。艦隊入港の日。今は愈々、あの雲の影によって明るくなったり暗くなったりしている海峡の町にさよならをしよう。
Oは、Kと同じ新聞社に勤めて、Hの二階を借りている。二、三週間の約束で僕を泊めてくれることになった。彼が居なかったら今回僕は何処にも行き様がなかったわけだ。こんな痩せた人は未だ知らない。なんでもOは危篤状態で刑務所から担ぎ出されたのだと。彼は暇があると横になって躯を休めている。Hの家は高所にあるので、南面の窓外はパノラマ風景だ。総てが睡っているような秋日和で、左手遠くに、造船台、起重機、格子塔、青黄の鉛筆みたいな碇泊船のファンネル。正面の松に蔽われた湊山のトンネルヘ、郊外電車が模型の動きで潜り込んで行く。軍艦が見える時刻だが、海の向うは秋霞にぼやけている。
神戸駅のフォームで、チョッキの両脇へ指をかけた紳士がKに話しかけた。特高だと云う。皇礼砲は鉄輪の響に邪魔されて聞けないだろう。このレールを東方へ、来たるべき時を迎えた折にどんな気持で自分は走るだろうかが懸案だったが、いま再び西に向って取って返している。けれども往復はもうこれ以上繰返されないだろう。昨夕、神戸へ出る折、僕は車内で靴紐を取換えて、古い緒を一ノ谷の窓外へ投げ棄てた。身代りの心算だった。

名所図絵。派出所。バス乗場。電車の食堂。土産物店。正面に見える淡路島。白っちゃけた観光地の玄関。この二ケ月間寝起きした下駄屋の離れに帰って、古物商Fを呼ぶことにする。夜具の荷造りとがらくた道具を売払う為に。波戸崎を渡り、白壁が並んだ掘割の方へ歩いた。検番前の茶房へはいった。この近所に住んでいた彼女の瞳に映った、石、水、電柱、板塀の広告などを見て置こうと思った。「今度シドニーへ行くことになったので、お暇乞いに来た」と口に出すと、汁粉屋の息子は怪訝な顔をした。そしてあの女の子が居たのは、この煙草店の横を入った突当りで、夏にはよく氷水の出前を持って行った、など聞かせてくれた。
「置去りにされた町ですね」Oが寺の土塀に眼を遣りながら「僕なら一週間も辛抱出来んな、これじゃ只の点景人物になってしまうよ」――古物屋に用事を依頼してから、川岸へ出た。石の上で網を捌いている人影があった。問いに応じて、「鮒です」と眩しげに顔をあげた。この馴染の腰の屈んだ寺男にも再び逢う折はあるまい。下駄屋の離れに戻るなり、両君は俯せになった。酒亭を三軒廻ったからだ。一人で再び飲みに出て帰ってみると、荷造りが出来ていた。これをステーションに出して貰って、我手に渡されたのは七円余。灯が点った街で飲み直して、Oの為に、干鮹を買った。その品は意外にも曾ての我が住いの真向いの店にあった。三十年を通して自分は一向知らなかったわけだ。東の空がオウロラのような火竜の乱舞。雲に映っている艦隊のサーチライトだ。梶島二郎著『非ゆうくりっど幾何学』を小脇にして、これでOK!プラットフォームの外れに光っている緑色のシグナル。様々な気持で眺めたものだが、君にもアデュー!
がら明きのクッションの上に転がっていた両君は、神戸駅に着くなりバネ仕掛のように飛起きた。ネオンの下でKが云う。「何物も残っていない所に何の感興もないのは、当り前の話だよ」(25th)

薄ら寒い。宿酔と地獄の呵責。こんな朝は自分には何百回重ねられて来たことだろう。Kの細君も、頭が痛いとあって蒲団を引被っている。雨の絶間を捉えて元町へ出た。艦隊歓迎のデコレーション。濡れたアスファルト。合羽着の水兵が三々五々。黒羅紗服に赤い腕章の士官はお役人のようだ。丸腰のせいだろうか。日々新聞社で、青か赤か見当のつき兼ねる顔色をしたKが、いま東遊園地の園遊会から帰ったばかりだと云う。僕の服はよごれて濡れている。「近日中に穴が明くだろう」と口に出すと、「途端電車のレールへ踵を突込んで上下に裂け、序でにトラックに刎ねられるのと違うか」Oがつけ足した。注射だ!三ノ宮神社境内の飲屋へ行く――
夜、三人でHを訪れた。荷物は届いていたが、申訳ばかりの包装は雨でべとべと。二階へ運び上げていると、細君が「どなたかお見えになるのか?」Oは「別に――」と答えた。でも一言断わって置こうと降りると、着物を着換えた細君が真青な顔をして坐っている。「いま二階へお伺いしようと思っていました」と眼色を変えて「あなた方は酷い。いくら主人が何日間も帰宅しないからと云って、そんな勝手な真似をされると近所に対しても可笑しい。一言聞かせてくれてもよさそうなものだ。お偉い方々から見たらHは阿呆かも知れないが、ともかく一家の主人であるから、余りに見くびったことは止めてほしい」ともかく明日、御主人に逢いますから、と手をついて謝った。この二階からの眺め。イルミネーション。シンチレーション。ネオンの明滅。サーチライトの綾。博覧会場の光のモール細工。Hは一週間以上帰らぬそうだ。蒲団が濡れているので、いま一晩Kの家に厄介になる。(26th)
(後略)

『稲垣足穂全集 第7巻』筑摩書房120?122P

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